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55.06ホロゴンドラマ4「2008年11月11、12日長崎四日と楽日」6 もっと写真的に奥深い構図がある!

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宿題が残っていました。
Andoodesignさんから、コメントでこんな問題提起があったのです。
「サンラザール駅裏」の写真では、飛ぶ男のかかとが水に落ちる一瞬手前で止まっています。
カルティエ=ブレッソンは、この稀有の一瞬を生かすためにトリミングをしたのではないか?
私は、わざをこの点を自分の議論の中に入れなかったのです。
Andoodesignさんの提案にお答えしながら、その理由を説明いたしましょう。
ご提案は、次のような理由があるので、トリミングの理由としては考えにくい、
それが私の結論なのです。
まず、カルティエ=ブレッソンのトリミングの原則から考えてみましょう。
彼は、そもそもの始まりから、ノートリミングを原則としていました。
さまざまなフォーマットの写真が混在した戦前、戦後はもとより、
つい最近まで、写真作品はトリミングが原則でした。
カルティエ=ブレッソンは、そんな風潮の中で、偉大なる例外だったのです。
そもそも写真を撮り始めた瞬間から、トリミングを必要とする写真は撮らなかったのです。
「サンラザール駅裏」は、彼には珍しく、どうやらやらせなのです。
はじめから設定、構図を決めて撮っているのに、この写真だけはトリミングしたくなった、
これはちょっと考えにくいのではないでしょうか?
トリミング前の原図、これは彼の当初の目論み通りの構図だったはずなのです。
こうした考え方を補強する点として、
単シャッターのカメラで、水に落ちる一瞬手前で止める写真を撮るって、
スナップの名手にかかると、そんなに難しいものではないのです。
若い頃、王選手のホームランがバットから離れた瞬間の写真を見たことを覚えています。
ボールは縫い目まで見事に写されていました。
「サンラザール駅裏」では、この小太りの人物はふんわりと空中に飛び出しているのです。
当時、カルティエ=ブレッソンはおそらくライカⅡ型ひとつで撮っていたはず。
シャッターを押してから写るまでのタイムラグはカルティエ=ブレッソンの身体に入っていたはず。
最後に、そして一番決定的な理由は、私がすでに書いたことです。
カルティエ=ブレッソンは、そのような写真的な離れ業をあまり評価していなかったのです。
彼の言う構図は、写真全体で決まるものであって、いわゆるスナップ写真とは違います。
そうして離れ業を主題とするようになったのは、
カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間に表面的に影響を受けて、
いわゆるストリートスナップを盛んに撮るようになったアマチュア写真家たちだったのです。
カルティエ=ブレッソンは、人間的な真実を画面全体でキャッチできる瞬間があると考えました。
それは、そもそもドキュメンタリーの手法だったのです。
だから、トリミング前の写真もそのような瞬間であると、彼は確信して撮ったのです。
でも、プリントをしてはじめて、もっと写真的に奥深い構図があることを彼は知った、
そう私は考えたいのです。
こんな風に、画面のファクター全員がさまざまに重層的にこだまし合う、
そんな写真を撮ることは、彼のような天才にとっても至難でした。
それを彼自身十分悟っていたからこそ、トリミングにあえて踏み切った、
足が水につく直前のタイミングが主題であれば、トリミングはしなかった。
私は、そう考えたいのです。
そうでなければ、カルティエ=ブレッソンはこのときだけ、
構図を無視して撮ってしまったということになってしまうのではないでしょうか?
by Hologon158 | 2009-03-12 00:13 | ホロゴンドラマ | Comments(5)
Commented by andoodesign at 2009-03-12 00:32
なるほど!今回の一節で完全に理解できました!
スッキリ、微塵の疑問も感じません。
もちろんトリミング無し、常に構図を意識してと思い込んでいましたが、それは意識するまでもなく体に染込んだ行為だった。
特に「ドキュメンタリーの手法」からの一行、ハッとさせられました!
スバラシイ分析!納得!
Commented by Hologon158 at 2009-03-12 14:23
re)andoodesignさん
そんな風に持ち上げられますよ、
よいしょっという感じで、こそばゆいですね。
カルティエ=ブレッソンのような、心から敬愛できる芸術家のことだと、
いくら書いても書き足りないという気持ちになります。
そんな気持ちで書き飛ばした文章です。
軽い気持ちで受け取ってください。
カルティエ=ブレッソン信奉者の方はウェブ空間をたくさん駆け回っておられると思います。
そんな皆さんがどんな風に感じられるか、聞いてみたい気持ちなのですが、
反応が一切ありません。
論評するまでもないとお考えなのでしょうかねえ?
ちょっと気になります。
Commented by 銀治 at 2009-03-14 15:44 x
「サンラザール駅裏」に対する僕の評価ですが、男の水たまり直前の瞬間が美しいのではなく、全ての要素が絡み合って美しいのだと考えています。
走る男とにたようなサーカスらしいイラストが奥にあり、時計は2時過ぎを指し、走る「動」な男に対して動きがない「静」な男もいて、水全体が鏡のようになって要素の全てを2重にしている。という構成美。
「サンラザール駅裏」が演出による制作なのかは、僕は知りませんが、2点言えることがあります。
1つは、ブレッソンにとって着水直前であろうが、着水直後であろうが、撮りたい衝動に変化は無いと思います。また、見る側にとっても、着水直前も瞬間ですが、着水直後でミルククラウンのように水が止まっていたら、それはそれで「瞬間」だったと言えると思うからです。

つづく
Commented by 銀治 at 2009-03-14 15:44 x
2つ目は、トリミングについて。彼は確か「小さいフォーマットだから十分にそれを生かした構図が重要」というような話をしていたと思います。つまり、ノートリが重要なのではなく、フォーマットの中の表現が重要なのかと。
で、「サンラザール駅裏」のトリミングですが、記憶では縦位置フィルムで、皆がみているあの写真の構図の両サイドに、写真の奥に写っている鉄柵が両サイドにぼけて写っているのです。つまり、柵の隙間に見た瞬間だったということです。ついでに確か、「サンラザール駅裏」はノーファインダーに近い撮り方だったということ。ブレッソンはカメラを構えたときに、ピントファインダー(あるいは外付けファインダー)が柵がじゃまになってブラックアウトしたので、目視で撮影した。ということのようです。

ま、こんな裏話的ゴシップ的な件はどうでもよくて、ブレッソンの視点と思想が、間違いなく「サンラザール駅裏」を産み出したのだと言うことが重要でしょうか。
Commented by Hologon158 at 2009-03-15 10:23
re)銀治ぃさん
分かりやすく意を尽くした文章で、大変に参考になりました。
まことにおっしゃるとおりだと思います。
私が書きたかったことは、銀治ぃさんがお書きになった部分の続きだったわけです。
つまり、カルティエ=ブレッソンにとって、ノーファインダーで撮った作品そのもので十分だったはずなのに、なぜトリミングをしたか?
ついでに、カルティエ=ブレッソンと外付けファインダーの関係についてちょっと考えたことがありますので、今から書いてみます。