わが友ホロゴン・わが夢タンバール

55.24ホロゴンドラマ4「2008年11月11、12日長崎四日と楽日」24 写真って機械的な焼き付けだけなの?


55.13で書きました本で、著者は、絵と写真とを対比してこんな風に書きます。
「絵は、ひとつの裸体をその変化とともに平面の上に描く。
変化する厚みとしてのボリュームを、記号としての線や色に転換する。
すると、この身体は、動き、匂いを発し、歳をとってゆくもののように輝く。
絵が写真にできないことをするのは、まずこの点においてである」
私は、ハテナ?と頭をかしげたものです。
じゃ、写真は、記号としての線や色に転換しないだろうか?
写真の中で、身体が、動き、匂いを発し、歳をとってゆくもののように輝かないのだろうか?
世界のセックス産業は、絵ではなく、写真を媒体にしているのじゃなかったかな?
著者は、こう説明します。
「写真は、絵と同じように平面の上に立体に関わる像を作る。
けれども、そのやり方に<記号>というものが働く余地はない。
写真は、機械による光の遮断を通して、
おそろしく瞬間的な像を紙に焼き付けるだけである。
写真機は、レンズによるその知覚に何一つつけ加えることはできない。
ただ、世界から一定量の光を差し引く。
そこに像ができる」
この方、複数のカメラを使ったことがないな、私は直観しました。
レンズごとに、異なる性質、異なる雰囲気の像を結ぶばかりでなく、
露出とシャッター速度の組み合わせ次第で、映像はがらりと変わることをご存じない。
さらには、撮影者の人間性まで加味されるので、
同じレンズを使っても、人ごとにぜんぜん違う画像になることもご存じない。
写真の線や色も、絵のそれと同様に、立派に記号として働いています。
しかも、機械的な写像としてではなく、撮影者の心を表現するものとして。
私は、ものを考える人間に必須の条件は身体を使うことだと考えます。
身体動作を伴って思考が働かないで、
頭だけでものごとを考えると、どこかいびつになってしまいのではないでしょうか?
写真のことを語って学問的貢献をしたいのであれば、
少しぐらいはクラシックカメラを使ってみて欲しいですね。
「敵を知り己を知れば百戦あやうからず」
そう言うじゃないですか?
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by Hologon158 | 2009-03-17 11:54 | ホロゴンドラマ | Comments(2)
Commented by andoodesign at 2009-03-17 23:03
お聞きするに、その著者の方は少し視野が狭いようですね...。
本音は写真を見下しているのでしょう。
仮に写真の技法が一元的で面白味の無いモノだとしても、絵画と写真をプロセスで語って優劣を付けるなんて、アートに携わる者に言わせれば、まったくナンセンス。
なんだか空しいですね。

近年少し良くなったように感じますが、日本は写真に対しての評価が低過ぎるように思います。
特に欧米では写真は完全にアートとして位置づけられてますよね。

反面、ひとつの方向から「言い切る」ことをしないと議論が生まれないのも確か。
それにしても、Hologon158さんが言われているように「もっと勉強してから言いなさい。」というのが筋ですね。
誰もが知っている無難なこと言っても面白い内容にはならないでしょうから...
いろいろ、難しいですね。
Commented by Hologon158 at 2009-03-18 00:11
re)andoodesignさん
ほんとに写真に対する社会の評価は大変に低いですね。
ディジタルカメラの普及がさらにその傾向に拍車をかけている感じがします。
誰でも考えるのです、あれくらいは撮れる!
アマチュア写真家自身が、大写真家たちを見下しているのですから、世話はないですね。
私は、写真のことが好きになればなるほど、
偉大な写真家たちに対する愛情と敬意を深めています。
これが人類が手に入れた、まったく異種の新しい表現手段なのですがねえ。