78.24 ホロゴンデイ23「09年1月11日葛城古道歩けばロボーに当たる」24 松都三絶のファン・ジニ
インターネットでファン・ジニに関する朝鮮新報 2004.10.25の記事を見つけました。
私自身の記憶のために転記させていただきます。
近代以前の女性の記録は、男性のそれと比べるとあまり数は多くない。
歴史的な大事件の周辺や、当時の社会において禁忌を犯した事件、
王や王族と関係の深い事件など、
その「事件性」の特異さから、後世に伝わることはある。
また、「彼女ら」の「生き方」に嫌悪と憎しみを抱き、
批判する文を残した文人がいるかと思うと、
一方で深い共感と同情をこめて、自らの文集に記録した男性文人もいた。
松都三絶(朴淵瀑布、徐敬徳、黄眞伊)と讃えられる黄眞伊(ファン・ジニ)は、
「燃藜室記述」「錦渓筆談」「松都紀異」「於于野談」などにその生の片鱗を見ることが出来る。
宮女(女官)と勘違いしている文を見ることがあるが、
黄眞伊は妓生であり、天才的な詩人でもある。
多くの記録は「才色兼備の特異な妓生」として黄眞伊を扱っているが、
柳夢寅の「於于野談」では、
「家父長的中世の礼教の束縛に抵抗する人物」として書かれている。
文頭で黄眞伊は、「女でありながら志高く、任侠の人であった」と紹介されている。
また時の宰相の息子李生を伴って、
「世俗の規範を離れた遊覧」(方外之遊)、「清遊」を企図し、
質素な山衣、野服を身にまとい、使用人を伴わず、李生自ら食糧を背負わせ、
一年あまり金剛山を巡り、食料が尽きると山寺にそれを求め、
時には僧にその身を与えて食料を調達したという。(乞食諸刹 或自賈其身)
猟官には関心がない、当時の大学者であった徐敬徳(ソ・ギョンドク1489~1546)に、
黄眞伊は教えを請うべく訪ね、
「礼記」を引用しながら訪ねた旨を説明すると、徐敬徳は笑って師弟関係を受け入れたが、
彼女の誘惑にはついに負けなかったという有名なエピソードと共に、興味深い記録である。
野史、野談、或いはそれを解説した文では、黄眞伊が自らの性的な魅力を誇示するために、
貴族や僧、「良家の子息」を誘惑し「堕落」させたとあるが、
それは「高潔で高邁」、「世俗とは一線を画す」はずの彼らが、
いかに俗物であり、本音と建前が違うかということの証明を、
黄眞伊自らの身をもって示したものであろう。
黄眞伊の「誘惑」は、そのような偽善に対する一種の反抗でもあったことが伺える。
わざわざ、世に名だたる高僧と呼ばれた僧を「誘惑」するエピソードも、また然りである。
李士宗(リ・サジョン)との婚姻のエピソードも、当時にあっては破天荒である。
その歌に魅せられたのか、歌の名手であった李士宗を自ら誘い、6年間の契約結婚を申し出る。
3年間は黄眞伊がその経済的負担を一身に背負い、
正式な妻ではない自らの「身分」を越えることなく慎ましく生活し、
後の3年間は李士宗が経済的な負担を負い、
6年が過ぎると、「約束の期日は過ぎました」と言い残し、家を出たという。
驚くべきことである。
徹底した経済的自立を前提としたこの契約結婚において、
黄眞伊が何ものにも隷属しない、人格的に対等な男女としての出会いを
最優先したということだろう。
また、先に述べた徐敬徳は、黄眞伊を憎からず思っていた節があり、
彼の詩調に黄眞伊を想う心を詠う詩だと伝わる次のような作品がある。
心が愚かなら 為すことみな愚か
この険しい深山に
あのひとが来るわけはないが
落ち葉や吹く風に もしやと思う
朝鮮儒教史上本格的な哲学的問題を提起し、独自の「気哲学」の体系を完成させた大学者が、
素直に彼女を想う気持ちを認めたとしたなら、愉快である。
黄眞伊は今際の際にこう言い残したという。
「わたしは自由奔放に生き、華麗なものが好きでしたから、
死んだ後は深山ではなく、人の行き交う大路の端に埋めてください」。
(趙允・朝鮮古典文学研究者)
この女性、とんでもなく自立した現代的女性だったようです。
ますます研究したくなりました。
私自身の記憶のために転記させていただきます。
近代以前の女性の記録は、男性のそれと比べるとあまり数は多くない。
歴史的な大事件の周辺や、当時の社会において禁忌を犯した事件、
王や王族と関係の深い事件など、
その「事件性」の特異さから、後世に伝わることはある。
また、「彼女ら」の「生き方」に嫌悪と憎しみを抱き、
批判する文を残した文人がいるかと思うと、
一方で深い共感と同情をこめて、自らの文集に記録した男性文人もいた。
松都三絶(朴淵瀑布、徐敬徳、黄眞伊)と讃えられる黄眞伊(ファン・ジニ)は、
「燃藜室記述」「錦渓筆談」「松都紀異」「於于野談」などにその生の片鱗を見ることが出来る。
宮女(女官)と勘違いしている文を見ることがあるが、
黄眞伊は妓生であり、天才的な詩人でもある。
多くの記録は「才色兼備の特異な妓生」として黄眞伊を扱っているが、
柳夢寅の「於于野談」では、
「家父長的中世の礼教の束縛に抵抗する人物」として書かれている。
文頭で黄眞伊は、「女でありながら志高く、任侠の人であった」と紹介されている。
また時の宰相の息子李生を伴って、
「世俗の規範を離れた遊覧」(方外之遊)、「清遊」を企図し、
質素な山衣、野服を身にまとい、使用人を伴わず、李生自ら食糧を背負わせ、
一年あまり金剛山を巡り、食料が尽きると山寺にそれを求め、
時には僧にその身を与えて食料を調達したという。(乞食諸刹 或自賈其身)
猟官には関心がない、当時の大学者であった徐敬徳(ソ・ギョンドク1489~1546)に、
黄眞伊は教えを請うべく訪ね、
「礼記」を引用しながら訪ねた旨を説明すると、徐敬徳は笑って師弟関係を受け入れたが、
彼女の誘惑にはついに負けなかったという有名なエピソードと共に、興味深い記録である。
野史、野談、或いはそれを解説した文では、黄眞伊が自らの性的な魅力を誇示するために、
貴族や僧、「良家の子息」を誘惑し「堕落」させたとあるが、
それは「高潔で高邁」、「世俗とは一線を画す」はずの彼らが、
いかに俗物であり、本音と建前が違うかということの証明を、
黄眞伊自らの身をもって示したものであろう。
黄眞伊の「誘惑」は、そのような偽善に対する一種の反抗でもあったことが伺える。
わざわざ、世に名だたる高僧と呼ばれた僧を「誘惑」するエピソードも、また然りである。
李士宗(リ・サジョン)との婚姻のエピソードも、当時にあっては破天荒である。
その歌に魅せられたのか、歌の名手であった李士宗を自ら誘い、6年間の契約結婚を申し出る。
3年間は黄眞伊がその経済的負担を一身に背負い、
正式な妻ではない自らの「身分」を越えることなく慎ましく生活し、
後の3年間は李士宗が経済的な負担を負い、
6年が過ぎると、「約束の期日は過ぎました」と言い残し、家を出たという。
驚くべきことである。
徹底した経済的自立を前提としたこの契約結婚において、
黄眞伊が何ものにも隷属しない、人格的に対等な男女としての出会いを
最優先したということだろう。
また、先に述べた徐敬徳は、黄眞伊を憎からず思っていた節があり、
彼の詩調に黄眞伊を想う心を詠う詩だと伝わる次のような作品がある。
心が愚かなら 為すことみな愚か
この険しい深山に
あのひとが来るわけはないが
落ち葉や吹く風に もしやと思う
朝鮮儒教史上本格的な哲学的問題を提起し、独自の「気哲学」の体系を完成させた大学者が、
素直に彼女を想う気持ちを認めたとしたなら、愉快である。
黄眞伊は今際の際にこう言い残したという。
「わたしは自由奔放に生き、華麗なものが好きでしたから、
死んだ後は深山ではなく、人の行き交う大路の端に埋めてください」。
(趙允・朝鮮古典文学研究者)
この女性、とんでもなく自立した現代的女性だったようです。
ますます研究したくなりました。
by Hologon158
| 2009-06-04 14:38
| ホロゴンデイ
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