82.12 ホロゴンデイ24「2009年1月10日壷阪山は寂しく雪交じり」12 ますますボケ写真を撮ろう!
昨日は、ひさしぶりに沢山のカメラマンを見かけました。
普通、私が歩く場所は裏町なので、カメラを持った人には出会いません。
三室戸寺は、紫陽花シーズンには写真のメッカの一つとなります。
カメラを持った人でごった返したのですが、
面白いことに、銀塩カメラをもった人は10本の指で数える程度。
すでに写真趣味はディジタルカメラの移行を済ませつつあるようです。
ブログ界を見渡しても、同様の傾向は十分うかがえます。
でも、一番多かったのは、携帯電話での激写でした。
簡単に言いますと、もう銀塩カメラの時代は終わったのです。
三室戸寺に居たディジタルカメラの人たちが撮った写真は、
おそらく質感、精密感において、私のホロゴン写真をはるかに超えているはず。
いつかはそんな時代が来るだろうと読んではいましたが、
こんなにも早く、銀塩カメラの時代が過ぎてしまうとは誤算でした。
そこで、ますます考えること、
よし、写らないレンズで、ますますボケ写真を撮ろう!
見かけの情報量が不足する分だけ、ホロゴンで、
見るがわの私自身の心の情報量を増やせるようにがんばろう!
でも、写真の見かけだけで、鑑賞者がその写真からなにかを得るなんて、
とてもじゃないですが、無理。
結局、私のような写真はプライベートなのです。
なぜなら、写真は、そのものずばりが情報源であるばかりでなく、
それ以上に、私がその写真をきっかけに心の中を探り、
私の他の記憶と重ねて、新たな情報をさらに積み重ねます。
写真は暗号なのです。
この暗号で、心の中の広い部屋が扉を開くのです。
そんな写真でも、フォトジェニックな被写体をフォトジェニックな構図で、
どんぴしゃり写し止めていたら、
写真ずきな方に大いにアピールすることでしょう。
ノンフォトジェニックな被写体を、構図などお構いなしに撮影する私は別として、
有名ブログのご主人たちも、同様に、自分に忠実に撮っておられることでしょう。
でも、そんなご主人たちの写真は、写真作品としての存在感をしっかりと確保しつつ、
その傍ら、その人ならではのフレーバーに包まれているのです。
そんな写真作品に私がもし共感するとすれば、
写真のそんなフレーバーに親しみを感じるからでしょう。
そんな写真にどんどん会いたいですね。
普通、私が歩く場所は裏町なので、カメラを持った人には出会いません。
三室戸寺は、紫陽花シーズンには写真のメッカの一つとなります。
カメラを持った人でごった返したのですが、
面白いことに、銀塩カメラをもった人は10本の指で数える程度。
すでに写真趣味はディジタルカメラの移行を済ませつつあるようです。
ブログ界を見渡しても、同様の傾向は十分うかがえます。
でも、一番多かったのは、携帯電話での激写でした。
簡単に言いますと、もう銀塩カメラの時代は終わったのです。
三室戸寺に居たディジタルカメラの人たちが撮った写真は、
おそらく質感、精密感において、私のホロゴン写真をはるかに超えているはず。
いつかはそんな時代が来るだろうと読んではいましたが、
こんなにも早く、銀塩カメラの時代が過ぎてしまうとは誤算でした。
そこで、ますます考えること、
よし、写らないレンズで、ますますボケ写真を撮ろう!
見かけの情報量が不足する分だけ、ホロゴンで、
見るがわの私自身の心の情報量を増やせるようにがんばろう!
でも、写真の見かけだけで、鑑賞者がその写真からなにかを得るなんて、
とてもじゃないですが、無理。
結局、私のような写真はプライベートなのです。
なぜなら、写真は、そのものずばりが情報源であるばかりでなく、
それ以上に、私がその写真をきっかけに心の中を探り、
私の他の記憶と重ねて、新たな情報をさらに積み重ねます。
写真は暗号なのです。
この暗号で、心の中の広い部屋が扉を開くのです。
そんな写真でも、フォトジェニックな被写体をフォトジェニックな構図で、
どんぴしゃり写し止めていたら、
写真ずきな方に大いにアピールすることでしょう。
ノンフォトジェニックな被写体を、構図などお構いなしに撮影する私は別として、
有名ブログのご主人たちも、同様に、自分に忠実に撮っておられることでしょう。
でも、そんなご主人たちの写真は、写真作品としての存在感をしっかりと確保しつつ、
その傍ら、その人ならではのフレーバーに包まれているのです。
そんな写真作品に私がもし共感するとすれば、
写真のそんなフレーバーに親しみを感じるからでしょう。
そんな写真にどんどん会いたいですね。
by Hologon158
| 2009-06-14 21:47
| ホロゴンデイ
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