わが友ホロゴン・わが夢タンバール

100.02 ホロゴンデイ30「2009年5月30日毘沙門天のお膝元信貴山に遊び」2 そんなはずないよ

一万年前からの口承であれば、どんな語調となるだろうか?
まだこのことにこだわっています。
たとえば、カレワラの一節、
神話的英雄のワイナミョイネンの物語の冒頭シーンです。

        強い老ワイナミョイネンは
        深い海を泳いだ。
        樅の朽ち木のようにただよった、
        流れる水を前にして、
        澄んだ空を後にして。
        さらに二晩泳いだ、
        とくに長い二日間。
        同じく九つ目の晩も、
        八つ目の日の終わり、
        ひどく苦痛になってきた。
        足の指に爪がなくなり、
        指の関節が落ちたので...

観念的な語句など影も形もありません。
すべて具体性にとんだ出来事とものと動作だけの言葉。
どんな人でも、子供でも、聞けば、ちゃんと分かり、
心の中に情景を思い描ける、そんな口承です。
「一万年の旅路」は、もっともっと複雑な状況を描き、表現、叙述も入り組んでいます。
たとえば、こうです。

  「まずはじめは一族の何人かに、このような問題の解決法があるという可能性を
   理解してもらわなければならなかった。一族のうちで、こうした変化の可能性を
   一番たやすく見抜けるのはだれかを、彼女は見定めようと考えた。そのため、
   植物の根と成長の様子について、機会あるごとに人々に問いかけをはじめた。
   すると、すぐに、種が一つの場所から別の場所へ動くという可能性を受け入れることが、
   一部の者たちにとってどんなに難しいかを思い知らされた。」

著者は、オリジナルの口承から、英語にわかりやすく翻訳をしたそうです。
でも、それがよく分からない。
著者が、口承から英語に翻訳したとして、こんな文章に翻訳されるべき原形って、
どんなものだったか、私にはとても想像がつかないのです。
なぜって、オリジナルが、カレワラのように誰でもわかる簡潔な語句でつづられているなら、
逐語訳で十分ではありませんか?
こんな入り組んだ、概念語を駆使して翻訳する必要などあるはずがないのです。
それとも、1万年前の言語に、こんな概念語に対応するような語句があったのでしょうか?
口承が朗誦され、伝承されてきたのは、ずっと文字のない文化の中のことなのです。
上記の一節のオリジナルがこのような言葉に対応するような表現であったとしたら、
子供たちはとてもついていけないし、大人たちにしても、
そんな難しいことを語られても、耳にすっと入ってこないし、
情景を頭に思い浮かべることもできないし、記憶するなんて論外だったのでは?
他のすべての口承や叙事詩のような伝承文学は、古くてせいぜい3000年前でしょう、
それなのに、例外なく、そんな概念語など一切含んでいないのです。
なんとも不可解、私にはそう思えるのです。
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by Hologon158 | 2009-08-10 21:49 | ホロゴンデイ | Comments(0)