わが友ホロゴン・わが夢タンバール

162.135 ホロゴントラベル2「2005年9月青森は弘前の町の風情にしびれたね」135 裁判員制度はいい制度なの


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いつものように、自分のことは棚に上げて、一つ書かせていただきます。
    今回はシリアスです。

夏樹静子「裁判百年史物語」(文藝春秋)に対する書評子の言葉が目に余りました。
冒頭に、こう書かれているのです。

    裁判員制度が施行されて1年が経ち、賛否両論あるなかで、
    大きな問題もなく浸透していく気配がある。
    とはいえ、裁判が身近なものになったという感覚はなく、
    その実態を知る機会も多くの市民には訪れない。

1年で早くも問題が発生するとしたら、それはとんでもない悪制度。
    そんなにただちに問題が発生するわけではありません。
えん罪事件には2種類あります。
    A 裁判中からえん罪を訴えるケース(犯行を否定するすべての事件)と、
    B 判決確定後になって再審を申し立てるケース
     (犯行を自認している事件だってある)。
一方では、重大事件のほとんど90何パーセントが、被告人の犯行で、
適正な刑罰がなにかをめぐっての審議がメインのようです。
    そんなにごろごろえん罪事件が発生してはたまりません。
ですから、1年ぐらいで「大きな問題」など、発生するはずがないのです。

だからと行って、裁判員制度がえん罪を防ぐために有効であるとはなりません。
それなのに、書評子は、こう書くのです、

    前回の陪審員制度は、昭和3年に始まったが、
    戦時体制への移行していく過程で尻つぼみになり、
    昭和18年に施行を停止されたという。
    もし、この制度が継続し、市民の感覚での裁判が行われていたならば、
    戦後の冤罪事件は起きなかったのではないか、そう思える節もある。

そう思える節って、なんなんだ?
    浪花節じゃあるまいし!
    私には、この短絡的な論理は、まったく理解できません。

今回の裁判員制度は、完全な陪審員制度ではありません。
    でも、陪審員、裁判員いずれにせよ、刑事裁判の素人が短期間で結論を出す、
    この点では共通しています。
えん罪事件が発生する機微、機縁、原因はいろいろあります。
    捜査機関の思いこみ、
    被告人を真犯人と思わせる証拠がある、
    拷問や利益誘導等による、虚偽の自白への誘導、
    真犯人と被告人とが、かなりの点で重なり、区別がつかない。
    裁判官の誤断、怠慢、経験不足、
    世論に押されて、結論を急ぐ、
    とにかく急いで結論を出そうとして、事件を深く考えない、等々...
    中には、先般のDNA鑑定のミスのように、
    誰も見抜くことができない原因だってあります。

裁判をめぐるドキュメンタリー、法廷小説は数知れずありますね。
    それらを読むと、真実発見がどんなに難しいか、
    つくづく嘆息しないわけにはまいりません。
刑事、検察官、裁判官、弁護士たちが必死で長年、膨大なる証拠と供述の山を分け入って、
吟味に吟味を重ねて、それでもなお、明確な結論が出せないのです。
さまざまな犯罪事件に精通した専門家が、解決の糸口を探して何ヶ月も苦闘し、
幾度も証拠を精査し、検討しなおし、ある朝、突然閃くかも知れない、
    「そうだ! これが鍵だったんだ! 調べてみよう!」
でも、ついに閃かないかもしれない。
    とても、「市民の感覚での裁判が行われていたならば、
    戦後の冤罪事件は起きなかったのではないか?」なんて、言えたものじゃない!
第一、市民の感覚と刑事裁判の感覚とはぜんぜん別次元の問題。
刑事裁判は、目の前に証拠メニューを並べてもらって、
    「よし、私は有罪だと、思う!」なんて、択一問題を解くことではないのです。

    市民感覚が優れていたら、刑事裁判で優れた判断ができるのでしょうか?

えん罪事件のほとんどは、その真犯人が見つかっていないのです。
えん罪のメカニズムも数知れずあって、それぞれに対応策、防止策は違うのです。
では、そうしたえん罪防止のための研究、討議の結果として、
裁判員制度が採用されたのでしょうか?
    とんでない!
裁判所に市民感覚が欠けている、これを投入しなければという政治判断から、
裁判所、検察庁そろっての反対を押し切って成立に至った議員立法なのです。

ところが、裁判員制度はたった数日で審理集結にいたるのです。
膨大なる証拠と供述を吟味する時間も専門的知識もない人たちが、
多数決で有罪かどうか決めてしまうのです。
    市民感覚ではどうしようもない、重大かつ錯綜した難問なのに!
    人一人とその周辺の人たちの運命を決めてしまう、深刻な問いなのに!
    犯罪をやったんだから、しょうがないじゃない?
    なんて、言ってられないのです。
    やってない人だって、裁判にかけられる可能性は永遠になくならない!

    フィーリング裁判、そうとしか言いようがない!

刑事専門の退官した裁判官たちのアンケートで、
80パーセントの元裁判官が答えたそうです、
    「裁判員制度は誤審の土壌になる」
誤審を防ぐ刑事裁判制度はもっと深く、
もっと多角的な視点から十分吟味して改善されるべきなのです。
    無実の人を有罪に持ち込むだけがえん罪ではありません。
    有罪であっても、妥当な刑罰を科せられなければならないのです。
    刑罰の選択の間違いもえん罪の一種です。
被告人には耐え難いことですし、裁判制度そのものを毒する結果となります。

できるだけ早期に、この制度は見直されるべきです。
    そうでないと、戦後まもなくのえん罪多発時代に劣らぬ、
    数々のえん罪を生み出さないとも限りません。

あなたに質問しましょう。

自分がえん罪に問われる可能性があるって、考えたことがありますか?
    えん罪事件の被害者たちも同様です、
    夢にも思っていなかった。
    それなのに、生涯逃れることのできぬ、生き地獄を味わされたのです。
    (えん罪事件の多くが隠されて、または疑惑が晴れないままに終わっているのです)

    もしあなたがえん罪事件の被告人にされてしまったとき、
    そして、あなたに不利な証拠がびっしりと積み重ねられたとき、
    たった数日間で、素人の市民に裁いて欲しいですか?

裁判員制度を称揚する人は、一人一人、この質問にまじめに向かいあうべきです。
そして、あなたも!
by Hologon158 | 2010-07-22 00:27 | ホロゴントラベル | Comments(0)