188.15 ホロゴンデイ56「2006年7月8日 京の北山はやっぱり夏がいい」15 そうではないかも?
司馬遼太郎の「ひとびとのあし音」
読んでいて、ほとほと感心しています。
正岡子規の周辺の人々のやさしくも真摯な生活ぶりを活写しています。
さまざまなエピソードが重ねられて、
その数家族の人々の人生がすこし分かるような感じがします。
でも、ふっと考えたのです。
司馬遼太郎は一体どんな風にして、調査していったのでしょうね?
こんな風に司馬遼太郎が描き出した人間像って、
実像とどれだけ重なり合うんだろう?
たとえば、あなたや私の人生をちょっと考えてみてください。
今まで、数知れぬ出来事がありましたね。
就職とか結婚とか子供の誕生とか、
人生の節目となるような、ある意味で画期的な出来事もあり、
そんな画期的な出来事ではないんだけど、
深く長く影響を作り出した、とてもささやかな出来事もあります。
たとえば、ある友人との出会い、ある友人、家族の死、別れ。
そして、日々の生活の中でも、
いつまでも記憶に残ることだってあります。
そんな小さな言葉が、
その後の生き方に大きな影響を与えたことだってあるでしょう。
これらすべての大切な出来事って、
あなた記録したり、誰かに話したりしていますか?
していませんね。
日記にだって書けないことだってあります。
そのときには重要な事件だと気づかないことの方が多いでしょう。
司馬遼太郎に限らず、研究者、歴史家にとって、どんな情報源があるでしょうか?
1 本人の書いたこと
2 本人の経歴に関わるさまざまな情報
3 本人と交流のあった人々の記録、情報提供
4 本人の周辺事情を明らかにしてくれる同時代の情報
5 関係資料、書籍
でも、考えてみてください。
こうした研究者、歴史家が手に入れることのできる情報と、
こうした情報源のすべてから洩れている情報、
どちらが多いと思いますか?
もちろん後者ですね。
私には、歴史上の有名人であっても、
その比率は1対99か、またはそれ以上と思われます。
そうすると、有名でない市井人の場合は、
さらにその比率は大きくなるでしょう。
つまり、ほとんどすべての重要な情報は漏れてしまうのです。
歴史家たちはこう反論するでしょう。
ちょっとしたエピソードが、その人を浮き彫りにする。
そんなエピソードを重ねることで、
その人を概ね正確に描き出すことができるのだ。
そうかも知れません。
でも、そうではないかも知れないのです。
ですから、史書や伝記を読むとき、
心にいつも留めておくべきではないでしょうか?
こうして書かれていることは、
ひょっとすると、間違っているかも知れない。
by Hologon158
| 2010-11-18 17:01
| ホロゴンデイ
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