わが友ホロゴン・わが夢タンバール

250.16 ホロゴン外傳20「2011年6月5日 ノクトンが安土に出会った日」16 さらに遠のいてゆく


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まだ森山大道さんの写真を考えています。

森山大道さんはとても筆の立つ人です。
盟友だった中平卓馬さんもそうですね。
二人して、写真論を滔々と弁じることができる、珍しい写真家。

中平卓馬さんの写真論は、あまりにも博覧強記、
天馬空を行くがごとき写真論で、私には完全にちんぷんかんぷん。

森山大道さんの写真論は、同じくらいに雄弁ですが、
かなり分かりやすい。
でも、写真の方は一変して、分かりにくいですね。

これは、私が森山さんと同じ気分、同じ情感を
もっていないせいでしょうか?

詩人マラルメの次の言葉を見つけました、

    言葉が表現する力のなくなったところ、そこから音楽がはじまる。
    言うに言われぬもののために、言葉が作られる。
    影から出てきたような気配があって、
    そして瞬時にしてそこに戻ってしまう、そんな音楽。
    いつも控えめにしている人みたいな、そんな音楽を書きたい。

この「音楽」を「写真」に置き換えたら、
そのまま、森山大道さんの撮りたい写真世界がありそうです。

私の問題は、森山さんがとらえるその「気配」を、
私もとらえたい、理解したいと思わないところ。

    森山さんは、都会人か、または都会人を理解したい人間。
    私は、田舎人で、都会人を理解したいとは思わない人間。

たとえば、私は、スナックのストゥールの下から、
女性の足を撮りたいとは思いませんし、
これがどんな意味をもつのか理解できず、
理解したいとも思わない。

これはたしか写真集「新宿」の写真だったと記憶しますが、
今回の写真展のポートフォリオにも収められていました。
森山さんにとってなにか大切な意味を持つイコンなのでしょうか?

私も都市のバックストリートの、ときにはメインストリートの
ロボグラフィを撮りますが、対象は、
「影から出てきたような気配があって、
そして瞬時にしてそこに戻ってしまう」そんなものたちではなく、
「影の中に居るままに、しっかりと存在していて、
私に見つけられて喜んでいるけど、でも、私を必要としない」
そんなものたち。

「気配」「情感」「気分」ではなく、ただシンプルな存在。
私にとって、写真は表現でもアートでもなく、
ただの写真。
それで十分。

そんな人間にとって、森山大道さんの写真は無縁。

言葉が表現する力のなくなったところ、そこから写真は始まらない。
言葉で言えるけど、記憶できないところ、そこから写真が始まります。

どうせ、「ドラム缶」「電柱」「子供」「田んぼ」
こんな程度のものなのですから、
「僕、面白いドラム缶を見つけたよ」
そう言えば済むところ、その体験そのものを記憶しておきたいから、
そのディテールを思い出すよすがにしたいから、写真を撮ります。
これって、記念撮影の延長でしかありません。

だから、私は素人であり、森山さんは写真家なのですね。

というわけで、考えれば考えるほど、
森山さんは私から遠のいてゆくようです。
by Hologon158 | 2011-07-24 14:59 | ホロゴン外傳 | Comments(0)