わが友ホロゴン・わが夢タンバール

299.04 ホロゴン外傳28「2012年1月23日マクロスイター36mmF1.4と西大寺の出逢い」4 マグナム展



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土門拳のエッセイ集「写真と人生」(岩波書店)を読んでいます。
1960年のマグナム展の感想記が面白いですね。

   「大体、マグナムの本質からして、
   こういう大型引き伸ばしにして展覧会場に並べる、
   というのが間違っている。
   だから、すべての写真が場違いな感じで寒々としているのだ」

と、十把一絡げに切って捨てます。
カルティエ・ブレッソンなんか、もうコテンパン。

   「まったく色あせて見えた。
   なぜ、ひところ、日本写真界があれほどブレッソンを
   もてはやしたのか、不思議みたいである。
   木村伊兵衛などは最もブレッソンにいかれたように見えるが、
   これは作家としての重大な錯誤であろう」

社会派の写真家として、広島や福岡の炭坑町など、
シビアなドキュンタリーを作り続けた土門には、
マグナムの報道姿勢、題材に物足りないものを感じたのは
当然だったかもしれません。

この調子でいくと、自分以外の写真のほとんどが
物足りなかったのではないでしょうか?

でも、写真は、社会、人生、生活のあらゆるシーンで
それなりの存在価値があります。
写真の主題だけで写真の価値を決めるのは、
問答無用の切り捨てでいただけません。

バルザックが、批評なんて簡単だと言います。

   ないものねだりをすればよいのだから、
   家庭的なものについては、政治性がないと言い、
   政治的なものについては、文化的な側面を欠いていると言い、
   というやり方で、
   なんでもかんでも、切って捨てることができる。

土門のやっていることは、これに近いですね。
自分の好き嫌いだけで、ものを書いています。

本ブログのような日記なら、それでいいのですが、
公的に発表するオピニオンとしては、いただけません。

土門がカルティエ=ブレッソンの写真になにも感じなかった、
ということは、私には、カルティエ=ブレッソンにではなく、
土門に問題があると感じられます。
この狭さが土門の強烈さにつながっているのでしょう。

でも、たとえば、大和の仏像写真のように、
仏像がただの物体として、
ガチガチのシャープネスで撮られているのを見ますと、
彼の写真的な姿勢そのものが「征服」に近かったのではないか?
そんな疑問が浮かんでくるのです。
by Hologon158 | 2012-02-08 18:27 | ホロゴン外傳 | Comments(0)