421.07 ホロゴン外傳105「2013年2月9日 大阪駒川商店街の裏道沿いにゾンネタールが」7 大道の大阪
森山大道「犬の記憶 終章」(河出書房新社)の中に印象的な部分があります。
大阪駅前の大きな歩道橋を渡りながら
目に映るさまざまな光芒を前にしたとき、
ぼくははっと一瞬、身のうちから突き上げてくるなにものかを直感した。
それは細く鋭い一本の電流のような閃きで、
またたく間にぼくの全身をかけめぐった。
その直感をかりに言葉にしてみると、
「もはやこうしてはいられない.......。
おれはここを撮るしかない.......。
こんなところを人にまかせるわけには絶対にいかない.......。
おれがここを撮るしかない.......。
もはやこうしてはいられない」
というきりのないつぶやきのリフレインなのだ。
森山大道は本気でそう思っていたのでしょう。
大阪を撮ることは、我がミッションなのだ。
現役の写真家の中でその資格を持っていたことも事実なのでしょう。
でも、思うのですが、
この意気込みはとても勇壮なのですが、
反面、大阪という都市の存在の大きさ、深さを、
正確に認識していなかったのではないでしょうか?
数百万の大阪人が生まれ、生き、死んでゆく生態圏は、
はてしない生々流転のまっただ中を漂流しています。
今この現在における大阪だって、
一人の写真家が1台のカメラで捉えることができる大きさをはるかに超えています。
果たして、できあがった写真集「大阪+」は、
写真家森山大道の視点から見た大阪の、それもほんの一部でした。
ほどんど裏社会一点張り。
たとえば、そこには大阪の男たち、女たちのたくましいど根性の生きざままど、
影も形もありません。
それこそ、なによりも重要な大阪の姿なのに。
不思議に、写真集の中で大阪は、
新宿、ブエノスアイレス同様に、モリヤマワールドに変貌していました。
暗く希望がなく、さまざまな鬱屈、不安、恐怖、怒りが黒くうごめく世界。
よく言われることですが、
人が誰かの性格の欠点、欠陥について不満をもらすとき、
自分自身の性格の欠点、欠陥を投影していることがあるようです。
写真家は、自分の写真世界に自分自身を投影して、
その世界を等身大で認識理解したと考える危険があります。
いずれにせよ、一人の写真家が大阪の全貌を等身大で捉えるなんて、
はじめから無理。
写真家の数だけ大阪があります。
その大阪はたがいに似ても似つかぬ姿を呈していることは十分にありえることです。
自分の撮った写真こそ大阪の本質を捉えている、
そう宣言することは自由ですが、
間違いなく、その言葉は単なる誇張でしかありません。
神の視点でないと、そんな本質を捉えることなどできないことは明らか。
こんな風に考えてきますと、
冒頭の言葉は自分に新しいミッションを課す、激励、奮起の言葉だったのでしょう。
それにしても、あなた、そんな宣言をすることができますか?
私にはできませんし、そんなことを考えたことがありません。
私も大阪が大好きで四半世紀にわたり撮り続けてきました。
森山大道先生が集中的にお撮りになった質量にはとても及びませんが、
それでも、何百回、すくなくとも千本以上は撮ってきました。
でも、私の視点は、大阪の生々流転の波動のほんの一部を感じさせてもらう、
ただそれだけ。
by hologon158
| 2013-03-15 18:44
| ホロゴン外傳
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