わが友ホロゴン・わが夢タンバール

451.06 ホロゴン外傳116 「2013年7月13日 パンタッカーが滋賀の都をうろついた」6 至福の境地



モーツァルトの楽譜は、そのすべてではないようですが、
書き下ろしたままの美しいものなのだそうです。

三島由紀夫の原稿もほとんど書き下ろしのままだそうです。
私が見た原稿用紙は、とても美しい筆跡で書き留められ、
まったく訂正はありませんでした。

一方、宮澤賢治の原稿は原形をとどめないほど推敲されていました。
その推敲の完璧さはむしろ感動的でした。

モーツァルトの楽譜が美しいのは当然という感じがします。
天上の音楽なのですから。

    昔親しくしていた小説家は妥協を許さない硬骨漢でしたが、
    あるとき、こうおっしゃいました、

         「美しすぎる、
         人間の手になるものとは思えません、
         そうじゃありませんか?」

    感に堪えないという恍惚の表情を今でも忘れることができません。

本当にそのとおりです。
神がモーツァルトを通して歌っている、そんな感じさえします。

その点、三島になると、彼のファンには申し訳ありませんが、

    前期の作品群は確かに天才的ですが、
    後期、とくに最後の4部作「豊饒の海」となると、
    天才の創造の泉は尽き果ててしまったという思いを
    一行一行感じつつ読んだことを記憶しています。

    外枠は完全に夏目漱石や森鴎外の時代の雰囲気を借用して、
    淀みのない文章が連綿と続くのですが、
    まるでワーグナーのライトモチーフをつなげるような感じで、
    手慣れた常套文句がつながっているだけ。   
    言葉だけが流暢に流れ、
    血肉のある人間の心などちらりとも感じ取れないのです。

三島は、自分で書きながら、そのことがありありと分かったのでしょう。
もう若い頃のあの創造の泉は涸れてしまい、
天上のモチーフなどちらっとも浮かび上がってこないことに、
言葉に尽くせない絶望を感じたのではないでしょうか?  

彼の最後のクーデター的決起は、衆望を担って、
国民のために必要やむを得ない最後の手段に出るというファクターなど皆無。
完全な独りよがりの跳ね上がり行動でしかありませんでした。

    私には、創造力を失った小説家が晴れの舞台から退場しようとして、
    無垢の若者たちを道連れにした、
    完全な犯罪行為でしかないと思わざるを得ませんでした。

    案の定、彼の死は、日本史における無意味な暴走の一こまとして、
    忘れ去られようとしています。

そこで思うのですが、

    推敲をしないで、作品を作り出すという行為には、
    ときとして、創造性の欠如を示すことがあるのではないでしょうか?
    
私のやっていることなど、まさにそのとおりですね。

    レンズの描写力(三島の文章力)だけにひたすら寄りかかって、
    現場の写真表現にふさわしい配慮(推敲)をいっさいオミットして、
    ただバシャバシャとシャッターを切って(書き流して)、
    そのまま人に見せる(出版する)。

でも、私の写真は芸術的創造とはなんの関係もないのですから、
三島の感じた絶望とはまるで無縁ですね。

無からアートを生み出す苦しみは想像を絶するものがあるようです。
日本の大写真家たちの中には、
自殺寸前まで追い詰められた人がかなりいるようです。

私にとって、写真は苦しみではなく、カタルシスなのですから、
けっして心を痛めない方法を選ぶ必要があります。

私の選んだ方法は、実に簡単です。

    被写体を発見しますと、
    さっと近づいて、
    ファインダーを見ないで、撮影地点を直感で決めます。
    頭の中で「ストップ」と声がかかります。
    理由なんか、ありません。

    ノーファインダーなら、そのままレンズを向けて撮ります。
    決めるのは縦か横かだけ。

    ファインダーを見るときは、
    ピントを合わせたら、周辺を確認することなく、
    シャッターを落とします。

スピード至上主義。
そして、一番肝心なことは次。

    撮れた写真は、ブレボケがない限り、
    全部かわいい我が子と認知する!

創造力に頼ることがないので、枯渇することがありません。
その代わり、人から評価してもらえない危険があります。
これは想定されたリスクというわけです。
我ながら、うまい解決法を見つけたものと満足しています。

考えても見て下さい。

    天才でない限り、人の評判なんて、
    「人の噂も七十五日」

    「あなたの写真は素晴らしい!
    あなたは天才だ!」なんてことを、
    誰も、側に付きっきりで、耳元にささやいてくれたりはしません。

勢い、「わたしは2014年の全国ゴミ箱写真コンクールの大賞を取ったんだ!」
なんて、過去の栄光をいつまでも引きずることになりかねません。     

    人の評判は、あの世にもっていけないのです。
    自分の心身を太らせてくれるものでもないのです。

それだからこそ、誰からも知られず、評価されず、
自分の撮りたいものを撮りたいように撮り続ける、
これこそ至福の境地というものではないでしょうか?




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by Hologon158 | 2013-07-17 22:03 | ホロゴン外傳 | Comments(0)