わが友ホロゴン・わが夢タンバール

480.11 ホロゴンデイ111「2008年6月21日ホロゴンウルトラワイドは菅浦が好きだった」11 家門の栄光



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今楽しんでいる韓流ドラマは「家門の栄光」
「宗家」と呼ばれる伝統のある名門一族の経営する会社Aに、
夫婦でリヤカーを引く廃品回収業からのし上がった、
いわば成り上がり一族の経営する会社Bが業務提携を装って、
入り込み、経営権を奪い取ってしまおうとするお話。

    Bの御曹司は父の薫陶よろしきを得て、
    どこかの電力会社の経営陣そこのけに、
    裏切りでも闇討ちでも平気でやってのける野心家。
    それなのに、Aの一族のプリンセスに恋をしてしまうのです。
    恋心と裏切り、この二つの時期がぴたりと符合してしまいます。

さて、これからどうなるのか?

    なに、心配することはありません。
    怒濤の乗っ取り戦争の果てにはハッピーエンドが待っています。
    確かではありませんが、そのはずです。

このお話を見ながら改めて感じるのですが、

    人間はあらゆる環境にがんじがらめに縛られているのですね。

    両親、兄弟を初めとする家族、伝統、
    生まれ育ち生活している社会と時代と世界、
    その間に巡り逢う様々な状況、機会、アクシデント、
    友人たちと敵たち、
    交遊や仕事で知り合う人たち、
    自分の性、遺伝、性格、才能、知能、等々、
    これらすべてが一人の人間の条件となり、
    その条件の中にがんじがらめにとらえられて生きるのです。

そんな人間の条件の中で一番苛酷な条件はなにか?
あなたはどうお考えですか?

貧困?
でも、貧困がバネになって大きく飛躍する人だっています。
もちろんさまざまな苛酷な条件は考えられます。

    でも、一番、逃れにくい条件は権力のある支配階級に生まれること。
    私はそう考えます。

一番良い例が家族企業が発展した大会社の跡取り息子。

    物心ついたときには、もう怖いものなし、
    したい放題の毎日。
    その典型的なサンプルがアレクサンドロス。
    マケドニア王フィリッポスⅡの嗣子として育ち、
    生涯怖いものなしでした。
    アリストテレスという偉大な師の下で、
    帝王学、倫理学を学んだはずなのですが、
    人情を自分の都合のよいように利用することはあっても、
    自分自身は人間倫理に縛られることはありませんでした。

    その後半生は、被征服民族の殺戮と抑圧、
    自身を神と崇めない、
    ギリシア的ヒューマニズムを毅然として守る家臣たちの殺戮で
    血みどろに彩られています。

現代の跡取り息子たちは、
平重盛のように、そうした危険をすべて回避できる人は稀、
たいていの場合、
さすがにアレクサンドロスほどの暴君ぶりは発揮できませんが、
上にはへつらい、下には横暴を極める行動がどんなに非常識か、
まったく分からない人間になってしまいがちです。

私はそのような人間に出会う経験を数々積んできましたが、
残念ながら、と言うか、悦ばしい、と言うべきか、
そのような人間と心を割って語り合い親交することなど、
ついにありませんでした。

自分がそんな境遇に生まれ育つことがなかったことが、
どんなに幸運なことか、よく分かっています。

    もっとも私も家門の伝統の影響を受けているようです。
    一生人に頭を下げない人生を送ってしまったのは、
    どうやら家庭の影響のようです。
    私だって、自分の条件下で生きてきたのですから、
    このこと自体自慢すべきことでもなんでもないのですが、
    一生人に頭を下げず、
    心を割って語り合える友人としか付き合わない人間は、
    広く浅い交友関係とは一切無縁なので、
    要するに、ほとんど知る人もなく、ひっそりと生きることになります。

しかし、私はそんな境遇にひそかに誇りと成功感を感じています。
おかげで、自分の生きたいように生きることができるのですから。
そこで、ふっと気づいたのですが、
私の写真との関係もまったく私らしい。
「手に取るな やはり野に置け蓮華草」
自分の人生がそうなんだから、当然ながら、自分の写真もそうなのです。
誰一人私の写真を知るものもなく、
私の写真を高く評価する人もほとんどないけど、

    だから、どうなの?
    それがどうしたの?
    そう心から言えることが嬉しいですね。
by Hologon158 | 2013-12-07 21:52 | ホロゴン外傳 | Comments(0)