わが友ホロゴン・わが夢タンバール

482.15 ホロゴン外傳125「2011年9月10日 ボケレンズが梅田、難波の路地を駆け抜けた」15 弱者の目



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昨日の続き。

横尾忠則現代美術館を出て、
西に向かって大通りをまっすぐ歩けば異人館通りの北野に到達します。

   地図の上では一っ飛びの感じ。
   でも、延々と歩きに歩きました。
   撮影しながら1時間以上歩きました。

カメラを持っているから、軽々と歩けるのです。
次々と意表を突くロボグラフィに出会って、
心を躍らせるから、歩いていることに飽きません。

   撮るべきものも、見るべきものもなにもない新興住宅地を
   延々数キロ歩いたことがあります。
   死ぬほどに辛い体験でした。

このことを考えると、砂漠の民の辛抱強さには恐れ入りますね。
いつしか神を見るのも無理からぬことかも知れません。

エルマー35mmF3.5を使いました。

ソニーα7、時折というか始終というか、
液晶ファインダーが暗黒のままで使えなくなることがあります。

   どうやら電池が半分ほどにもなると、
   アイレベルファインダー優先となって、液晶ファインダーを省略するようです。
   やむなくノーファインダーを強行します。

帰宅したら、エルマーの距離表示部にもマークを張り付けましょう。
   常に、緑(最短)、白(1m)、黄(1.5m)、青(2m)、赤(3m)

画像はライカ特有の柔和で実在感をたたえて、文句なし。

   ライカ50mm、35mmはすでに1930年代に完成していたのです。
   その後は画竜点睛を求めるユーザーたちに売りつけるための、
   ユーザー戦略だったと言いたいところです。

   カモは、より一層の完璧なレンズを求める多くのユーザーたち。
   行くつく果ては、肉眼で見るのと同じくらい、無収差で超精密な画像?
   それくらいなら、写真やめて、肉眼で見るのを楽しんだら、
   そう言いたいところです。

   (このあたり、完全に絶対少数意見であることはよく承知していますが、
   まあ、書かせてください)

私は、自分の写真に実在感、精密感など求めません。

   現実には見られないヴァリエーションこそ、クラシックレンズの真骨頂。
   そんな写真はただの逃避だ、ごまかしだという意見をお持ちの方も多いでしょう。
   でも、あらゆる現実に真っ向から立ち向かい、
   真っ正面からぶつかっていく人は、必ず挫折し粉砕されてしまいます。
   現実の方が私たちより強力で、
   容赦なく邪魔者をふみつぶして進むジャガーノートなのですから。

弱者の生きる道はなにか?

   そんなジャガーノートの進路からかろやかに身をそらし、
   笑いものにすること、これです。
   アーチストたちがやっていることはたいていの場合それです。

権力の側に立つアーチストなどいません。

   アーチストというものは本質的にアナーキーであり、弱い者の一員。
   権力の側に立つアーチストは遅かれ早かれ芸術性を失ってしまいます。
   芸術というものの本質は自由なのですから。

写真が、クラシックレンズが、芸術の圏内にあると言いたいのではありません。

   芸術でなくても、私たちを強くしてくれるものがあり、
   その一つが写真なのです。

クラシックレンズは、その現実の変容力を通じて、
私に、廃れゆく者たちが強者の陰でなんとか踏みとどまり、
誇りを失わずに、生を全うしようとしていることを感じ、
自分の人生にそんなものたちエネルギーを分けてもらうことができる、
私はそんな感じがしているのです。
by Hologon158 | 2013-12-16 18:20 | ホロゴン外傳 | Comments(0)