514.06 ホロゴンデイ119「2010年3月27日 まだ日差しの強い大阪本町で」6 肌触りの記憶
ホロゴンで撮るとき、
たとえば、一眼レフで撮るような場合とはかなり感覚が違います。
一眼レフで撮るときは明確に視覚的と言えそうです。
つまり、視角をフルに働かせて被写体をサーチします。
ところが、ホロゴンで撮るときは、むしろ触覚的なのです。
「鎧袖一触」という言葉があります。
歩きながら、通りすぎながら、すれ違いながら、
追い抜かれながら、撮ります。
視線はまっすぐ前方、
腰のカメラだけがその方向を見つけて、撮ります。
動かないものを撮るときも、カメラの動きは流動的です。
前回の最後の下生えを撮ったときもそうでした。
ホロゴンウルトラワイドをホールドした両手をすっと突き出し、
心が動いた瞬間にシャッターを落とします。
ノーファインダーなのだし、
どこまで撮れて、どんな風に写るかなど、予測不能なので、
あれこれ構図を探る手間がないうえ、
15㎜となると、手ぶれがほとんどないので、
撮るという動作をびしっと決める必要がないのです。
18年間撮ってきましたので、おそらく動きながらでも、
シャッターを落とす瞬間だけは静止しているのかも知れません。
とにかく被写体ぶれ以外のブレは起こらないので、便利。
そのうえ、ウェストレベルで撮るのですから、
私の視覚記憶とはまったく異なる光景が写ります。
それでも、写真を見れば、撮った瞬間のことを思い出します。
どんなに沢山撮っても、思い出します。
私は、しっかりと記憶に止めるために、カメラを持たない、
これはいわゆる識者の見識とされているようですが、
私は疑いますね、きっとほとんど忘れてしまうはず。
とくに、ささいな小さな瞬間の記憶など、
思い出すためのよすがもないのに、
まざまざと脳裏によみがえらせるなんて絶対にできないはず。
そんな記憶力の持ち主はいるのかも知れませんが。
写真はそんな記憶力などない私にミラクルを可能にしてくれるのです。
私のような撮り方で、なにを撮ったか分からないのに、
その瞬間の記憶って何だ?
そう尋ねられるかもしれませんね。
だから、視覚的ではないと言っているのです。
その瞬間の自分という心身の状態を、
レンズの背後に居た、生身の自分を思い出します。
そして写真に写っている人やものとの関係、
空気感、手触り、気分、そんなものを想起できます。
「肌触りの記憶」とでも言えるかもしれません。
だから、写真というものは、生きる行為になれる、
私はそう信じています。
これだから、やめられない。
by hologon158
| 2014-04-24 12:59
| ホロゴンデイ
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