わが友ホロゴン・わが夢タンバール

528.18 ホロゴン外傳130「2014年6月1日 幻燈街展の後では京の街も幻燈街に」18 ただの「発散」



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私はツィッターなるものに生理的に嫌悪感を抱いています。

   寸言でなにかを表現できる人はほとんどいない。
   だから、すべての発言が「舌足らず」
   そんな「舌足らず」は適確な情報にはなりえない。
   扇情的な意見が注目されやすくなります。
   意図して、または意図せずに、
   ツィッターはデマゴギー(煽動のための嘘)となる危険がある。
   そう考えるからです。

さりとて、文章制限のないブログがより正確な情報伝達手段、
だなんて、ちらっとも考えません。

   私のブログは文章も写真も過剰インフレーション状態。
   日記なのだから、仕方がないのですが、
   奇妙な状態を自分で作り出しているようです。

   私の文章も写真も全部読んだ人が居るはずがない。
   つまり、時折来ても、いわば虫食い状態で読んだり見たり。
   読んだり見たりする記事で、当然ながら、
   ブログ制作者の人間像を想像してしまうことでしょう。
   日々の偶感をただ単に書き流しているだけなのですから、
   かなり的外れな印象を持つことになってしまいそうです。
   さりとて、自分が思って欲しいような人間像に誘導する積もりもない。

でも、よく考えますと、どなたでも同じことが起こっています。
自分を等身大で理解してもらう試みなど、成功するはずがありません。

娘はプロの業務用翻訳家です。

   依頼者からの依頼文書を見るだけで、能力が分かるそうです。
   次の2つの両極端の間にあります。

       A ある人は、自分でも何を言っているのか、分かっていない。
       B ある人は、誤解の余地のないほどに明快、明確な依頼趣旨。

これはどうしようもないのです。

   誰もが、自分の理解できる範囲でしか説明できない。
   誰もが自分の器の中で泳ぐしかないのです。

   ああ、ぼくはBだ、あなたはそう瞬時にお感じになったでしょう。
   でも、たいていは幻想。

私のブログにしても、ただの偶感を推敲なしにざっと書き流して、
そのまま記事にしているのですから、
読んでくださいと人に頼める性質の文章ではありません。

   私は自分にBの文章がかけるほどの知性などないことを知っています。
   だから、本腰を入れて、文章を作り更正して完成するなんて、
   するつもりはありません。

写真にしても、こうして時間順に並べていますが、
そうすることで、自分がどこをどう歩いたかを想起したいだけ。

   人に見せたいわけではありません。
   見せても、どうせ理解してもらえるわけじゃないから。
   さりとて厳選に厳選を重ねて、傑作だけを出すなんて気はさらにない。

だから、いつもお願いしているわけです。

   読まないでください。
   写真を作品として観賞、理解しようとしないでください。
   できれば、来ないでください。

でも、よく考えてみると、
おそらく2000万ほどあると思われるブログのほとんどは、
私と同じような、自分以外の読者を想定しない、
ただの日記ブログなのではないでしょうか?

   要するに、「発信」ではなく、ただの「発散」ブログ。

このようなブログは間違ってもデマゴギーになりません。

   むしろこの出口のない現代に生きる鬱屈した精神のための
   解放の場となるのではないでしょうか?
by Hologon158 | 2014-07-08 21:29 | ホロゴン外傳 | Comments(0)