わが友ホロゴン・わが夢タンバール

598.06 ホロゴンデイ131「2015年5月16日yoshiさん迎えてホロゴン気負い立ち」6 これからが勝負



5月21日木曜日、所用で大阪に出ました。
朝JR奈良駅行きバスに乗るのがルーチン。

破石町(ワリイシチョウ)交差点の赤信号で停車しました。
前方の歩道を目の不自由な男性がわたっていきます。
左手に握った杖で時折路面を叩きながら。

ふと感じました。
彼の諸感覚が感じ取る外界はどんな世界なのだろう?
主として聴覚、触覚、皮膚感覚が作り出す世界像って、
どんなイメージなんだろう。

視覚を中心に世界像を描く人間には想像もつきませんが、
視覚イメージにほとんど寄りかかっている人間は、
聴覚、触覚、皮膚感覚をほとんど発達させる機会を持ちません。
確実なことがいくつかあります。
どちらの世界像にも大きな欠如、空白、無感覚がぽっかり穴を開けていること。
その優劣を一概に論じることなど、できないこと。
その豊かさは人によって違うこと。

ホメーロスがもし「イリアッド」「オデュッセイア」の作者であったとしたら、
彼は生まれついての盲目ではなかったはずと以前論じたことがあります。
どちらの叙事詩にも、視覚イメージが満ちているからです。
たとえば、オデュッセウスの背後に、彼を護るパラス・アテーネーが現れ、
その目が光輝いていた、という記述など、その好例です。
私は目の不自由な人たちの教育の実態をまったく知りませんが、
もしかすると、彼らの世界像を豊かにするような方向での教育プログラムは
あまり考慮、考案されておらず、
一般的な教育システムを押し付けられているのではないでしょうか?

ラジオはある意味で彼らがエンジョイできるメディアなのかも知れません。
でも、たとえば、ドラマがそうですが、目の見える人が作るドラマだけに、
ドラマのすべての効果が、視覚を補うことを主体として作られていて、
目の見えない人にイメージを補完させることなど考慮されていないかも?
そもそも、そのような方向でも調査、研究はあるのでしょうか?

中国春秋時代に「鶏鳴狗盗」という逸話があります。
斉の公子孟嘗君の食客(居候)に、
ただ鶏のトキの声の物まね名人とか、こそ泥も居たのですが、
公子の危機にあたって、意外な場面でそんな才能が活躍して、
危機を脱することができるのです。

ナチスドイツがやったような、
いわゆる劣性民族の排除政策は根本的に間違っていました。
もちろんユダヤ人を「劣性」とすること自体完全な間違いですが、
さまざまな人間がどこでどう社会に貢献するか、予測することはできないのです。

三国志演義、水滸伝、西遊記、これらすべてが同一のコンセプトで作られています。
それぞれに異なる性格、才能のメンバーが不足を補いあり、力を合わせて、
信じがたいような偉業を達成するのです。

私たち一人一人の人間だって、実は同じことをしています。
突然、なにをしたくなる。
役に立つとは思えないなにか。
ところが、人生のどこかでそれが活きることがある。
経験は、それがどんな経験であれ、どんなに金を費やして、
もしかすると、いつか人生を救うかも知れないのです。

私は、どちらかと言うと、猛烈に狭い体験の世界で生きてきました。
それを後悔はしていません。
でも、さまざまに苦しみ、あがき、苦悩してきた人にはかないません。

そう痛感する一つの分野が写真ですね。
おかげで、私の写真には「翳り」がありませんね。
その場にあるものがただ写っているだけですね。
だから、「どうして、そんなものを撮るのですか?」
という質問を引き出してしまいます。

ただし、私は、経験の貧弱さを補う、想像力だけはかなり持っているので、
そんな質問を受けても平気です。
私の写真を楽しむ方がおいでになるとすれば、
そんな想像力の遊びを楽しめる人だけ。

かなりの人が、自由に想像力を遊ばせることになぜか引け目を感じるようです。
まっとうな人間は地道に生きるものだよ。
私はその意味ではまともではないのかも知れません。
ある意味では、というより、いかなる意味でも、真っ当そのものの職業を、
一応真っ当に、横道に逸れもせず、生きたのですが、
私ほどに、子供の頃の自分を失わなかった人間はいないかも知れません。

天下の奇書の一つに、トーマス・カーライルの「衣服哲学」
(サーター・リサータス)というのがあります。
若い頃、この本を愛読したのも悪かったかも知れません。
すべての現象、世界は、存在が仮に身につける衣服にすぎない、という考え。
このような考え方は、ある意味で、秩序破壊的です。
社長さんだ、総理大臣だ、理事長だ、長官だと威張っている人間が、
ちっともえらく見えない。
逆に、なんにも肩肘をはらず、威張らず、自然そのままに生きている方に出会うと、
なんとも言えない親しみと敬意を感じてしまう。

これまで数知れず人間に出会ってきましたが、
外観が立派であればあるほど、中身がなにも感じられない、
そんな人にどれだけ出会ったことか?
この人、ほんとに泣いたり、笑ったり、同情したり、
誰かに、何かに共感したりするんだろうか?

そこで、思うのです。
目の見えない人たちの前では、そんな肩書き、外観は、
まったく何の役にもたたないし、
美辞麗句も、あっと言う間に、見せかけがばれてしまうのではないでしょうか?
そして、自分の貧寒さがばれたと気づかない。

最後に、また自分に戻りますが、
退職って、そんな衣服を脱ぐ行為ですね。
それが衣服だとは気づかず、
自分の本質だと信じていたなにかがあっと言う間に消えてしまい、
メインストリートに裸で立っている、そんな姿。

衣服への依存度が高い人であればあるほど、
過去の自分への執着が強くなります。
昔話に華を咲かせ、過去の自分へのこだわりがますます強くなります。
でも、周辺はそんな自分を、見て欲しいような視線で見てくれない。
かなりまずい状況ですね。
あなたはどうですか?
もしそうなら、過去のことなど、すっぱり捨てましょう。

二つ、リトマス試験紙を提供しましょう。
①あなた、この半年の間に、誰かとの話で、
自分の出身校や退職前の職業のことを話題にしましたか?
②あなた、この半年の間に、
自分の出身校や退職前の職業のことをちらりとでも考えましたか?

もしどちらかにイエスなら、
あなたは、あなたの本質と、
ただ一時着ただけの衣服とを取り違っています。
もしそうなら、もうそんなこと、忘れましょう。
なにを今更、そんな昔のことを?
今、あなたの前にはあなたの人生が開けているのです。
衣服を着ずに、誰にも気兼ねせず、自分の人生を生きることができるのです。

目に見えない人たちって、無理なくそんなことができる人たちかも知れない、
そんな感じがしています。

ちなみに、私はどうか?
私は、退職した途端に、自分の職業を忘れました。
思い出すことはほとんどありません。
人に話すことはさらにありません。
今の私が、真実の私。
まだまだ、これからしたいことがあります。
それをどう実現していくか、これからが勝負。




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by hologon158 | 2015-05-26 23:00 | ホロゴンデイ | Comments(0)