わが友ホロゴン・わが夢タンバール

630.04 ホロゴン外傅157「2015年1月9日ペッツヴァールが近江八幡をさらりと」4 心が先



まだ「書の読み方」を読んでいます。
なにしろ一つ一つ息を呑むような気合い、
そして、エネルギー感がこもっていて、圧倒されます。

三条実隆の仮名文字には仰天しました。
漢字主体で、その間に仮名が混じっています。
その仮名のバネの利いた描線の力感には、
大げさに言いますと、おそれとおののきを感じます。
どうすれば、このように雄大に、このように音楽的にかけるのでしょう。
音楽的と言うと、柔和で線の細い感触に傾きがちですが、
そのような趣は皆無。
比較的小さな、しかも細字なのですが、隅々まで力が漲っている。

三条流として、たくさんの弟子が集まったそうですが、
誰も真似ができなかったでしょう。
そもそも真似のできるものではないようです。
この字の形も力もすべて実隆自身の精神力を形にしたものだからです。
ここでも、心が先で、形は後。

写真でも同じことが言えますね。
20世紀後半にストリートフォトを志した世界のカメラマンの
少なくとも70%はカルティエ=ブレッソンに心を奪われ、
彼のスナップの極意を見つけようと、心を砕いてきたはずです。
(数値に根拠はありませんが、確信はあります)
私もそうでした。

でも、そんな写真の極意などないことが分かってきました。
人間は目だけで世界を知るのではありません。
心が、人間に備わる認識力のすべてをフルに使って、
世界を自分のためにつかみとります。
心と外界との間を隔てる区分など、本当は存在しません。
今この瞬間に自分が生きて認識する世界全体、それが自分。
カルティエ=ブレッソンの作品には、
その瞬間における彼自身が写っているのです。

私たちはカルティエ=ブレッソンではありません。
私たちはカルティエ=ブレッソンのその瞬間に躍動した精神を
想像すべくもありませんが、
カルティエ=ブレッソンの作品に自分を投影して、
感動することはできます。
後日、その写真を見るカルティエ=ブレッソンだって、
その写真の瞬間におけるカルティエ=ブレッソンではないけど、
記憶がその瞬間の自身を取り戻してくれるでしょう。
だから、私たちは彼が自分の作品に感じるほどの深さで、
彼の作品を感じ取り読みとることはできないのです。

結局、あらゆる芸術に言えることですが、
作家ほどにそのアートを深く感じ取ることはできません。
それでも、そこには人間の認識、感情の深さの、
より深い、より高いレベルが表現されているために、
私たちは啓発され、刺激され、
人間と世界に対する新しい見方を知ることができ、
その体験によって自己を高めることができるのでしょう。

カルティエ=ブレッソン以前の人たちは、
カルティエ=ブレッソンのように世界を眺めることはできなかった。
カルティエ=ブレッソンの作品によって、
世界の一つの新しい見方、感じ方を学ぶことができたのです。
だから、彼の作品はアートなのです。
でも、それをどんなに真似ても、真似は真似。
世界に対する新しい目を開くことなどできません。

私の写真の師匠は田島謹之助さんですが、
彼がいつも言っていた言葉をいつも思い出します。
「よい写真を撮りたかったら、
りっぱな人間にならなければいけませんよ」
その意味は上に書いたようなことだったんだなあ、
今更ながら、気づいても、ちょっと遅すぎるかもしれません。
自分と誠実に向き合い、世界と誠実に向き合う人間がつかみとる世界像、
そんな写真でなければ、人が感動するような写真作品となるはずがない、
そういうことなのでしょう。
この点はプロもアマもありませんね。




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by hologon158 | 2016-01-30 01:10 | ホロゴン外傳 | Comments(2)
Commented by korekazu at 2016-01-30 04:15
前記事とも通底するお話ですね。
デジタルから本格的に写真をやりはじめた私は、シャッターを押せばとりあえず写る気軽さに写真にハマり、その写真が少々面白いと他人に褒められたものだから有頂天になりました。
しかしそんな撮り方ではすぐに行き詰まり、いま試行錯誤しております。
それがつまり本記事のように世界を見る眼が養われていないからだと思います。
良い写真をものにするにはまず自分自身が豊かでなければならない。至言であります。
Commented by hologon158 at 2016-01-30 23:10
korekazuさん
まあ、自分自身、威張れた身じゃないので、
自分ができること、していることではなくて、
優れた写真家のしていること、すべきことについて
口幅ったい文章を書き連ねて申し訳ありません。
私の実行できることはもっと単純です。
わあ、いい、と思ったものしか撮らない。
人がいいと思うかどうかは考えない。
この2つ。
でも、客観性に欠けるので、
結局「ど素人」の身に落ち着いたわけです。
人がいいと思うだろう写真ばかり撮る人がいますが、
たしかにフォトジェニックで立派なのですが、
心になにも響かず、なにも残らない感じがします。
颯爽とした写真を撮ろうとするのは危険ですね。