わが友ホロゴン・わが夢タンバール

630.02 ホロゴン外傅158「2016年1月23日エルマジ95㎜f2.4が大王町に君臨」2 文体



往年の碩学、貝塚秀樹の「孔子」(岩波新書)を読み始めました。
その冒頭文で仰天してしまいました。
一気に読んでみてください。

「孔子は、紀元前552年ごろ、今の河南省洛陽に首都をおいていた
周という王朝の東の辺境である、山東省の曲阜に国を建てた、
周と同族の封建諸侯の魯国に生を受けて、七十四歳で死ぬまでの間、
この祖国を中心として当方の諸国を行脚して自分の独特の政策の
宣伝を行った。」

とてもとても息の長い文章ですね。
冒頭の552年ごろの後に、5個のセンテンスが続きます。
でも、そのどれに冒頭の552年ごろが係るのか?
孔子の誕生した年を指していることは、
判断するための基礎知識が全然ない初学者には、
長い長いセンテンスを最後まで読んでも、分かりません。

どうやらこれが貝塚先生の文体なのですが、
貝塚先生の思考でもあるのでしょう。
でも、いくら碩学でも、こんな分かりにくい文章は読みたくない。
この本、読むのはやめました。

貝塚先生の文体は、いわば、「連綿芋蔓体」
読者はしっかりと頭を使って、
論旨をずるずると引っ張りあげないと、
全体が明らかにならない。
頭を使わないと、最後まで、ちんぷんかんぷんになりかねない。

私のブログの電報形式は、「短文積木体」
やっぱり最後までたどり着かないと、
なにを言いたいか、さっぱり分からない。
でも、読者は頭を使う必要はありません。
ただ、読み流せば、なにが言いたいかは最後には分かります。

どうしてこの違いが出てくるか?
理由は簡単です。
貝塚先生は、自分がなにを言いたいか、
ちゃんと分かって書き出されていますが、
その連綿とした思考の糸筋を一文で書こうとするから、
難文になる。

一方、私の方は、自分がなにを言いたいか、
分かっていない。
書きながらポツポツと頭を働かせて、積み重ねていくだけ。

こんなに異なる人間が互いに対話するのはきわめて困難です。
貝塚流の方は、自分の頭の中で考えをまとめてからでないと、
話し出せない。
私はこの貝塚流の人たちに囲まれて生きてきたようなものです。

こんなせりふを冒頭に置く方によく出会いました。
「この問題には考慮すべき問題点が3つあり、
解決策も今のところ3つ考えることができます」
私も、一度、このセリフを言ってみたかった!
でも、私の記憶力と思考力を超えています。

私の義兄の一人がそうでした。
何か質問しても、にわかには反応がありません。
ところが、数分、あるいは10分ほどもしてから、突然、
「それはこういうことなんですよ...」
こちらの頭はもう別のことに移っているので、
藪から棒という感じで、めんくらってしまう。

逆に、私の方は、長考型の同僚からこう言われたことがあります、
「あんたなあ、すまんけど、
あんたの言うこと、早口すぎて、一言も分からん」

貝塚式思考の方は大きな研究に向いています。
私のような電報式は簡単な仕事向き、ということなのでしょう。

貝塚式思考は、私には絶対にできない芸当なので、
このような思考の人が、思考にどんな楽しみを感じているか、
私には分かりません。

私の「短文積木体」の楽しみは分かっています。
私に思いがけない結論に至り、思いがけない発見ができる、
そんな冒険の喜びを与えてくれるからです。

このブログの文章は全部「短文積木体」で書かれています。
思考がどこに流れていき、どんな結論に達するのか?
まったく分からないで、キーボードを叩いて書いています。
これがほんとの「ブラインドタッチング」
そして、書いた本人が、ふーん、そうだったのか?
そんな風に考えてもいいかもしれないなあ、
などと他人事のように受け取っている。

もっともっ推敲に推敲を、彫琢に彫琢を重ねていけば、
もしかすると、人も感心するような文章に仕上がるかもしれない。
でも、写真とまったく一緒ですね。
ロボグラフィを前にしたら、ただちにシャッターを切る、
これがいわば身上。
ためらったら、ろくな写真になりません。
私の感じたこととは似てもにつかぬ、ただの作りものに一変してしまう。
このブログのような日記もそうです。
ブラインドタッチングで頭の中をよぎる思いを記していくから、
私の気持ちのままの記録が残されます。

誤字脱字も気にしません。
そんなことにこだわることで、思考の糸が切れてしまいます。
ところが、読者の中にはこんな処にこだわる方がいます。
誤字脱字にぶつかると、気になってしょうがない。
そして、誤字脱字の存在で、書き手の能力を判定してしまいます。
その方の性格だから仕方がありません。
人間、誰しも自分の性格で生きるより仕方がない。
でも、ちょっと不便な性格、そんな風に感じますね。

「あー」と声に出し続ける間に、
頭の中で「6足す7は?」と自問しても、答えは出ません。
群衆の中で、10年前恋に落ちて愛を誓いあったのに、
事情があって離れてしまった女性を見つけたのは一瞬、
あとは雑踏が視線を遮って、あるいは注意を逸らされて、
次の瞬間には見失ってしまい、ついに見つからない、
これと同じで、
誤字脱字にこだわっていると、
文脈をそっくりつかめないままに読み終わってしまう、
そんなことになりかねません。

些事にこだわらない、これが大事。
と、自分の流儀に都合のよいことばかり考えて、
私は結論してしまいます。
ふむ、「短文積木体」も悪くないんじゃない?




c0168172_21553869.jpg
c0168172_21553220.jpg
c0168172_21552676.jpg
c0168172_21552012.jpg
c0168172_21551475.jpg
c0168172_2155643.jpg
c0168172_2155047.jpg
c0168172_21545220.jpg
c0168172_21544687.jpg
c0168172_21544082.jpg
c0168172_21543432.jpg
c0168172_21542836.jpg
c0168172_21542262.jpg
c0168172_2154155.jpg
c0168172_2154990.jpg
c0168172_2154487.jpg
c0168172_21535229.jpg
c0168172_21534624.jpg
c0168172_21534053.jpg
c0168172_21533564.jpg




   [後書き]
      ついでに書きますと、
      私は時折写真をだぶって掲載しています。
      投稿時もその後もろくに見直さないからです。
      見つけても、大抵の場合、ほおっておきます。
      誰も見ないのに、わざわざ修正に時間を使いたくない。
      見ても、どうせ、ろくに評価もしない写真の評価が、
      なおさらに下落するわけでもない。
      気楽なものです。
by hologon158 | 2016-02-03 22:05 | ホロゴン外傳 | Comments(2)
Commented by korekazu at 2016-02-04 05:18
谷崎はモチーフだけを念頭におき、結末はもちろん構成なども全く考えないまま小説を書き出し、あとは筆にまかせたといったエピソードを聞いたことがあります。
Commented by hologon158 at 2016-02-04 18:13
そうですね。
ドストエフスキーやトルストイも口述筆記を使ったそうですす。
どんと質が落ちますが、三島由紀夫も原稿用紙に書き下して、
ほとんど訂正がなかったと読んだことがあります。
でも、彼らはみんな天才。
文章も書も、がらくたからアートまで、その落差は大きいですねえ。