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633.10 ホロゴンデイ158「2016年2月16日高畑町をマクロホロゴンが一掃」10 嗚呼、司馬遷!



司馬遷という人は、思うに、
人類史上でももっとも刺激的かつ壮大な著述をした人でした。
(以下、なんの学識もない私の勝手な憶断、偏見に基づく、
誰も言わなかったような記述なので、
確かなこと、正確なことしか読みたくない方は、さよなら)

司馬遷は漢王朝の史官として、
殷から周への王朝交代期の紀元前11世紀から、
紀元前2世紀の漢の武帝の時代までという、
思想的にも政治的にも中国史上もっとも刺激に満ちた時期の
歴史を書くという、壮大な仕事を自分に課しました。

易姓革命という思想に基づいて、
各王朝は前王朝の社稷(正当な王権)を天命によって譲り受け、
前王朝の史書を後継王朝が編纂するというのが、
中国史における伝統でした。
要するに、現王朝は前王朝から社稷を譲り受けた正統王朝であることを
異論の余地なく実証する仕事が史官に課せられていたのです。
しかし、周王朝は殷朝の史書を編纂しませんでした。
まだ、そのような伝統が確立していなかったのでしょう。

孔子の編纂した「春秋」の理念は上記とは少し違いました。
いかなる政治行為も仁義礼知信の根本的な原理に基づいて、
過つことなく評価すること、これが歴史の理念でした。
司馬遷は、孔子の理念を受け継ぎながらも、
ちょっと寛やかなアプローチをしました。
人間、事績、出来事を正確に記述することで、
後世の読者にも判断を委ねたのです。

でも、ニュートラルに記述することなど、歴史ではありえません。
過去はひとまず過ぎ去って、消えています。
ばらばらの史書しか情報源がないので、
書を読めるほんの一部の人以外の、当時のほとんどの人は、
言い伝え以外には、過去の歴史も人物も知らなかったでしょう。
「史記」が当時の識者たちに与えた衝撃と影響力は計り知れない、
そう言っても間違いではないでしょう。

彼は、どうやってかはわかりませんが、
先行の史書をはじめとする著述、記録、資料を渉猟し、
おそらく当時ただ一人、過去の歴史の概要、詳細を把握したうえで、
自分の判断と能力だけを頼りに、「史記」の構想を決定し、
全編書き下ろしたのです。

期間中のもっとも重要な人物を「本紀」、
これに次ぐ人物と公家の通史を「世家」、
重要人物たちと重要事項を「列伝」に、
と、補足資料群を除くと、3分類にして記載する、
この「紀伝」方式を創案して、
これが中国の後続王朝史の標準的な記述方法となりました。

要するに、編年史よりも人物の方が重要、
これが司馬遷の基本精神でした。
なぜか?
これも私の勝手な憶測ですが、
歴史の過程そのものは繰り返さないけど、
その歴史の中におかれた人間の運命、
彼らが直面する危機、問題、決断等に似た状況は今後も起こる、
司馬遷はそう考えたのでしょう。
中国人の基本的な精神は「先人に学ぶ」であり、
司馬遷にもこの精神が生きていたのです。

大切なことは、失敗に学ぶこと。
成功例よりも、失敗例に多くのヒントが隠されているのです。
ところが、これが日本人が一番不得意とするところです。
たとえば、太平洋戦争における日本帝国陸軍は、
とんでもないバカ秀才たちによって主導されました。
学歴主義が昔も今に劣らず生きていたのです。
彼らは、自分の立てた作戦が失敗に終わる可能性を完全に無視し、
作戦が失敗したときの挽回作戦を用意せず、
とくに、敗北に終わったときの収拾策は、
敗北主義であると一蹴して、一切考えなかったのですが、
そればかりではありません。
過去の失敗例を学んで、応用利用するという姿勢も、
自分の作戦の失敗を反省して、その正確な敗因を突き止める努力も、
一切なかったのです。
敗戦は常に作戦実施担当の現場に責任を押しつけ、
現地の状況を無視した作戦を立案したのは、
現地からの情報提供がなかったからであると、
常に現場の責任追及だけに終わりました。

残念ながら、現代日本においても、
この日本的リーダー無謬主義は変わりがありません。
賢く立ち回る人間だけが出世する、この悪弊は、
日本的エリート機構の根本原理なのです。
一旦エリートになったら、どんなに無能でも、エリート。

司馬遷とはまったく正反対の姿勢、といわざるを得ません。
そのような司馬遷が、どうやら、もっとも心を込めて、
というか、愛情を込めて記載したのは、私のみるところ、
「刺客列伝」でした。

要するに、請負の暗殺者、殺し屋の伝記なのです。
そのような人間の伝記を他の重要人物たちに伍して、
列伝として立てたこと自体、きわめて珍しく、異様です。
司馬遷は刺客列伝を立てたことを後書きでわざわざ書いています、
「曹沫より荊軻に至るまでの五人、此れその義、
或いは成り、或いは成らず。
しかれども其の義を立つること較然として、
其の志を欺かず。あに妄ならんや」

「義」とは「義侠」のことです。
孔子の言葉にもあります、
「義を見てせざるは勇なきなり」
あれれ、あれれと、驚かされてしまいます。
三国志演義においても、その中心主題の一つは、
劉備、関羽、張飛の三人の義兄弟の固い交わりの生涯です。
さらに、「水滸伝」も変わりません、
108人の生まれも育ちも違う義侠の人たちの固い絆を描いた物語。
「春秋左氏傳」に登場する英明の君主、晋の文公も、
公子重耳の時代に、跡目争いで放逐されてしまうのですが、
結束した家臣たちにしっかり守られて諸国放浪の末に、
ついには晋の君主の地位を得て、
春秋五覇の一人として、歴史に名を残すのですが、
その長年の放浪の間、家臣たちが結束して互いに協力しながら
苦心惨憺する姿は春秋左氏傳伝の白眉と、私は考えます。
王子が国に帰れる保証などまったくないままに、
決して主君を見捨てないあたりには、
やはり義侠の精神が彼らを結束させていたことは疑いがありません。

司馬遷はさらに「遊侠列伝」まで立てています。
史記に登場するそうした遊侠の巨人の一人が希布。
「希布の一諾」という成句を残した人物です。
希布が一言「分かりました、やりましょう」と言ったら、
必ず実行する、人々は経験でそれを知っていたのです。

もしかすると、司馬遷は、歴史の檜舞台で活躍した、
いわば日の当たる立場の人たちに勝って、
義侠の人々に好意を抱いていたのかも知れません。

なぜ、「勝る」と分かるか?
「史記」を読んでみてください。
そして、「刺客列伝」を読んでみてください。
とりわけその末尾の「荊軻伝」がそうなのですが、
まるで一編の小説を読むかのような興趣あふれる文章なのです。
愛情と愛惜が溢れている、そう言っても過言ではありません。

あなたは、荊軻という人間の肌に触れる思いを抱くでしょう。
2000年以上前の古代世界にも宿があり、酒場があり、
喧嘩口論がり、馬車があり、と、
庶民の生活感まで味わうことができるのです。

このような生活感まで味わえるタイムマシーンのような史書って、
中国人の独占かも知れません。
厳密な意味では史書ではないかも知れませんが、
「論語」にも「春秋左氏傳」にも「世説新語」にも、
そうしたシーンがふんだんに出てきます。
これらの書物が書かれた時代には、
まだ日本人は字を持たなかったのですから、
中国文明の深さが分かります。

荊軻は、燕の太子丹の依頼を受けて、始皇帝暗殺を謀った人物。
もし成功したら、中国史は完全に一変していたでしょう。
一足早く中国の政局は混乱の極に追い込まれ、
いち早く誰かが主導権を握ってしまい、
項羽や劉邦の出る幕はなくなった可能性があるからです。
私としては、荊軻に失敗してもらってよかった、そんな感じがします。
漢王朝は、始皇帝が中国を統一して創り出した官僚制、法制度を
引き継ぐことができたからです。
始皇帝が早く暗殺されてしまっても、なお、漢王朝が創建されたとしても、
始皇帝の遺産がなければ、まったく異なる国家になり、
安定した政権を継続することができなかったかも知れません。

荊軻の逸話を一つ書いておきましょう。
荊軻は放浪の末、運命の国、燕に至り、
犬の屠殺人(狗屠)や琴の一種の筑の名演奏家高漸離と親交しました。

その文章はこうです、
「荊軻、酒を嗜み、日々に狗屠及び高漸離と燕の市に飲む。
酒たけなわにして以往、高漸離、筑を撃ち、
荊軻和して市中に歌い、相楽しむなり。
すでにして相泣き、かたはらに人無き者のごとし。
荊軻、酒人と遊ぶといえども、
然れども其の人となり沈深にして書を好む。
其の遊ぶ所の諸侯、ことごとく其の賢豪長者と相結ぶ」

ああ、この時代も現代の悩める酔っぱらいさんと同じことをやってたんだ!

この荊軻という人、一体、職業は何だったのか、不明。
各地を転々と旅して、どこでも「卿」と呼ばれて尊敬されます。
各地でいろいろとけんか口論をしますが、
さっと逃げ出してしまいます。
大望があったのです。
でも、自分でもそれがなんだか分からないし、
そんな機会もなかなか巡ってこない。
だから、そんな自分がもどかしかったのでしょう、
酒を呑み、いわば酒乱に近いほどに乱れたのです。
でも、酒に溺れないで、書を読んで、研鑽を怠らない。
そうして、ついに燕の太子丹に見込まれて、
いわば天下を転覆させる乾坤一擲の大勝負を挑むのです。
始皇帝暗殺計画実行のシーンの記述はまるで映画を見るようです。
是非、「史記」の「刺客列伝」をお読み下さい。

司馬遷は、そのシーンに立ち会って重要な役割を担った、
侍医の夏無且という人物から直接情報を得たと記載しています。
つまり、記載の出典を明らかにした、
私の知る限りでは唯一の情景。
だから、迫真の描写になったのでしょう。
ここまで克明に再現された歴史上のシーンはあまりありません。
プルタルコスの「対比列伝」のカエサル暗殺のシーンと双璧。

こんなことを考えていきますと、
司馬遷という人のことが段々と分かってきて、
親しみを抱くようになります。

司馬遼太郎先生もそうだったのでしょう。
おそらくペンネームの意味は、
「司馬遷の史的精神を継承する、はるか後世の嫡子」

司馬遷は、主題となる人物の人間性をさっと照射する、
短い出来事、エピソードを実に効果的に使いました。
司馬遼太郎先生はそのエピソード話法を継承しています。
後年、長大な歴史小説が多いのですが、冗長に過ぎ、
退屈ななかで、そうしたエピソード部分だけが印象に残ります。
司馬先生、どの小説も「燃えよ、剣」ほどの長さに縮めたら、
文学史に残ったのに、惜しいなあ、いつもそう思います。

ついでに、言いますと、三島由紀夫もそうですね。
段々と創造力が枯渇する中、
最後に、自分の能力を超えた長編に挑み、見事失敗します。
名文家の抜け殻だけで立てられた廃屋、そんな感じです。
初期の宝石のように輝く短編、中編に凝縮できなかったのは、
もう自分の作品に対する把握力を失っていたからのようです。

ナポレオンにも秀吉にも毛沢東にも起こったのと同じ、
「ロシア遠征現象」と呼ぶのが相当な現象。

司馬遷はそのような現象とは無縁でした。
だから、永遠に残る人類の古典を創造できたのです。
もしかすると、司馬遷は、ただの史書ではなく、
当時によける中国人の全貌を解明する、
空前の包括的人物事典を編纂したのかも知れません。




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by hologon158 | 2016-03-04 14:39 | ホロゴンデイ | Comments(0)