わが友ホロゴン・わが夢タンバール

635.06 ホロゴンデイ159「2016年3月2日ホロゴン15㎜F8Mが神戸を楽しんだ」6-完-何かを深く



友人がこんな味わい深い言葉をくれました、

「我々は、何かを深く味わいたい!のです。
他人の目は気にしないとしても、
その味わうものの中に、ある程度の普遍性があって欲しい。。。
きっと、心のどこかでそうも思ってます(笑)
普遍性というより、神に通じる道の方がいいかも。。。」

これに対する私の回答も書いておきましょう、

「私は、最初の2行に同意しますが
後の3行については、考えることがないようです。
私のやっていることはほとんど全部、
普遍性にもパブリシティにもつながらない、
そんな確信を持っています。
むしろつながって欲しくない。
自分のものは自分の懐の中にほんわりと包み込みたい、
そんな気持ち。
とりわけホロゴンロボグラフィについて、
いつもそう感じています。
自分一人のものだから、楽しい。」

写真はシンボル(記号)です。
なにか、そこに見えないものを私に呈示してくれます。
ロボグラフィもシンボルです。
私はなにかを感じて撮ります。
写真にそれが写るときもあれば、
写らないときもあります。
ところが、写らないときでも、
レンズが感じた別のなにかを感じることができます。
それは、私がそのとき感じなかったけど、
感じたら、きっと驚いただろう、なにか。

とてもプライベートな記号。
私はこの宇宙の時空に一人居て、
蜘蛛の巣の中心でじっと獲物をかかるのを待つ蜘蛛。
ほんのかすかな微震でさえも感じ取りたい。
さらには、微震さえもなかったのに、
なにかが蜘蛛の巣にかかってほしい。

存在感の軽重は私にとっての信号の軽重に比例しません。
存在感などまるでないのに、私の心を震撼させる、
そんなもの、気配、気分があります。
さらには、不存在さえも私の心を揺さぶることだってある。
私が感知しないゆらめきさえも、レンズが撮ってくれる、
そんな期待さえしたい。
ときには、私もレンズも感知しないメッセージを
ロボグラフィの側から発信してくれることだって、
写真の中にそっとすり込まれることもあるかも知れない。

だから、私は常に書いているのです。
私が撮る写真は「私の作品」ではない。
そんな写真のなかに織り込まれ、隠し込まれたなにかは、
撮影体験の主である私にだけ読み取られるものだって、
あるかも知れない。
そして、他の人が私の写真になにか感じるか、なんて、
私の関知することではない。

私はポジをバンバン撮っていた当時は、
こんなことを考えたこともありませんでした。
だから、バンバン捨てていました。
選ぶことが作品作りの最初の一歩、
そう考えていたからです。
今では激しく後悔しています。
私の体験や、体験のよすがの計り知れない積み重ねを
平気で忘却の彼方に蹴り出してしまったのですから。

言葉では言い表せない、深い体験のよすがを、
写真はしっかり蓄えてくれる、そう考えたいですね。





c0168172_1059341.jpg
c0168172_10592945.jpg
c0168172_10592378.jpg
c0168172_10591780.jpg
c0168172_1059619.jpg
c0168172_10585870.jpg
c0168172_10585318.jpg
c0168172_10584732.jpg
c0168172_10584111.jpg
c0168172_1058348.jpg
c0168172_10582842.jpg
c0168172_10582093.jpg
c0168172_10581460.jpg
c0168172_1058849.jpg
c0168172_1058235.jpg
c0168172_10575674.jpg
c0168172_10575172.jpg
c0168172_1057457.jpg
c0168172_10573947.jpg
c0168172_10573380.jpg
c0168172_10572765.jpg

by hologon158 | 2016-03-22 11:01 | ホロゴンデイ | Comments(0)