641.03 ホロゴン外傅164「2016年3月26日スピードパンクロ35㎜も清水へ」3 ロボグラフィ論
ロボグラフィは多種多様、雑多ガラクタ、無差別に撮りますが、
おそらく多くの人のつまづきの石となるのは、
不定形のなにかしか写っていない写真でしょう。
こんな不定形のものにどうしても目が行ってしまいます。
どうも不思議です。
私は基本的には抽象画を受け付けないのですから。
それなのに、抽象画まがいのイメージは必ず撮ります。
なぜか?
考えてみました。
本当のところ、考えたところで答えが出るわけがありません。
人間の行動は複雑深遠な要因で決まるのであって、
明確に認識できるような原因だけで決まるものではないのですから。
でも、ちょっと分かる気がします。
2つの理由を思いつきます。
①自分の心の中をのぞき込んでみたい。
チチェン・イッツァに池があります。
聖なる池セノーテ。
神事の一つとして、乙女の手足を縛ってこの池に放り込みます。
稀に浮かび上がってくる人は神の託宣を語ることができたそうです。
ほとんどの女性はそのまま沈んでしまったことでしょう。
でも、いわば神に心身のすべてを託することができた人は、
完全に心身を弛緩させることで、
浮かび上がることができたのかもしれません。
そんなことがどうしてできるか、分かりませんが。
そして、この底深く陽光の届かない沼の底の
闇の中になにかを観たかもしれません。
路地裏、都会の片隅にひっそりとうずくまるロボグラフィたちも、
この浮かび上がった女性たちのような存在かもしれません。
人間の営み、世界の移り行きのなかでの有為転変に耐えてきたからこそ、
曰く言いがたい玄妙な抽象模様を自ずから浮かび上がらせた、
それが抽象ロボグラフィたちなのですから、
そこに浮かび上がった模様は、
時間、宇宙、運命を物語ってくれるかもしれません。
人間にだって、時折、
なんとも言えない滋味豊かな味わいを醸し出す老人が居ます。
長い人生を丁寧に心豊かに生きてきた人たちは美しいですね。
このような人たちの風貌もまた抽象ロボグラフィに優るとも劣らない、
さまざまな神のご託宣を秘めているのかもしれません。
でも、これはいわば他人の人生。
それに対して、路傍の抽象ロボグラフィは、
私だけがそこに見つけることができたもの。
もしかすると、私の心の中の人生模様に感応し、
同期したからかもしれません。
そうすると、抽象ロボグラフィが語ってくれるものは、
私の心の襞模様なのかも知れない。
ケンキョウフカイ、ただのこじつけなのでしょうけど、
そんな風に考えると、うれしくなってきます。
私の心を喜ばせるものはなんであれ私の宝、
私はそう考えることにしています。
②時間芸術の一つの極致を見つけたという思い
①とだぶりますが、
私が見つける抽象模様は最初からそこにあったものではありません。
長い間の時間の経過の中で、
人間が、天地の営みが刻みつけたものなのです。
ちょっと大げさかも知れませんが、天地が描き出した絵なのです。
老人の風貌のようなものです。
おばあちゃんに抱っこされた孫がしげしげと下から見上げて、
質問したそうです、
「おばあちゃん、どうしてそんなややこしい顔をしてるの?」
これです。
宇宙の営みはややこしく、読みとることが難しく、
まして説明など簡単にはできません。
ただ抽象模様を味わうだけ。
こんな楽しみ方も写真にあってよいのではないでしょうか?
by hologon158
| 2016-06-08 11:24
| ホロゴン外傳
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