661.03 ホロゴン外傅177「2016年8月27日エルマリート28mmf2.8が近江坂本に」3 どこかに神が
ボルヘスは考えました、
この地上のどこかに神が隠れているに違いない。
たとえば、ジャガーの身体の縞の中に?
私は神を信じませんが、
ボルヘスのインスピレーションの働きには100%同意します。
視覚は二重の働きをします。
たとえば、北極でシマウマを見たりしますと、
私たちの視覚に脳が瞬時に干渉して、視覚を修正します。
「あ、ホッキョクグマだ!」
純粋客観的な視覚なんて、存在しません。
「私は確かに見た、私の眼がそれを覚えている!」
よく、そんなセリフを聞きますが、
真相は違います、
「私は確かに見たと考えた。私の脳がそう教えてくれた!」
私は道を歩きながら、次々と飛び込む視覚イメージに、
人や動物の顔や、異形の存在や、沸き上がる舞踏等々、
多彩なイメージの氾濫を見てしまいます。
考えるのではありません、
見えてしまうのです。
「地の塩」のような実直な人なら、こう言うでしょう、
「これはただのゴミ箱です」
この人が見ているのは、単なる機能としての存在だけ。
それが生活に必要な情報なのですから。
でも、どんな場合でも、つい想像に遊んでしまう人間は、こう言うでしょう、
「確かにゴミ箱です。
でも、ご覧なさい、眼がついて、笑った口があるじゃないですか?
このゴミ箱、確かに私を歓迎してくれているんですよ」
「ただの壁?
とんでもありせん。
異形の顔が浮かび上がってくるじゃありませんか?
なにかが隠れているんですよ」
こうして坂本の路傍風景をジャンジャンと並べていますが、
こんな写真たちを眺めながら、
私が、こんな風に感じて胸を震わせているなんて、
どなたも分からないかも知れません。
たとえば、前回の7枚目なら、
「あっはー!! 溝からばっと顔出して、
僕に挨拶してくれたんだなあ!」とか、
8枚目なら、
「よし、ゴミ回収車はまだ来ないな。
ぼくはそもそもゴミなんかじゃないんだから、
さっさとずらかそう!」と抜き足差し足忍び足...
11枚目なら、
「やあ、やあ、ホロゴンさんだあ!
ようこそ!
だーれも挨拶してくれないんで、退屈してたんだよ!
さあ、みんなで一緒に、ホロゴンさん、ばんざーい!」
12枚目なら、
「ぼく、朝、水でじゃあじゃあされて、絞られて...
こんなところに吊らされて...
なんだか、さびしいなあ...」と青くしおれてる。
こじつけじゃありません。
擬人化でもありません。
彼らもまた宇宙船地球号の乗組員なのですから。
私の写真を観る人はほとんど絶句します。
どなたも、
「なんだ、これは?
ただのゴミ箱、壁じゃないか?
なんでこんなものを撮るの?
なんの意味もないじゃないの?」
「わあ、面白い!
これウィンクしてますね!
きっと喜んでるんですよ」
なんて言ってくれた人はほとんどありません。
まして、
「わっ、凄い!
いいなあ!」と絶句するのではありません。
ひたすら、無言.................
一目でそれが分かるので、私の方が先んじて、
「なんの意味もないんですよ。
だから、人に見せて、どうこう言ってもらう写真じゃないんですよ。
私一人の楽しみで撮っているだけなんですよ」
でも、空しいですね。
だから、どう、という反応は依然として帰って来ない。
最初から最後まで私の一人舞台で終わってしまいます。
ブログでも同じことが起こっているでしょう。
「人は同じ川に2度入ることはできない」
と言ったヘラクレイトスじゃありませんが、
「人は同じブログに2度と来ることはない」もまた真理。
私も自分の写真を観て頂くつもりがありませんので、
幾度も重ねて、お断り申し上げています。
このブログはただの写真倉庫。
撮影順にただ並べています。
文章も、私のプライベートな日記。
でも、紙に書く日記も同じような事情にありそうです、
実は読み返すことがないかも知れない。
私のように、2つのブログで、
1万ほどの文章、10万を超える写真じゃ、
読み返すことなど、ままなりませんね。
ということは、ブログ作成は今生きる行為なのです。
作ることに人生の意味があるのです。
ブログに書けないようなことはできません。
ブログを埋めるために、
がんばって沢山のロボグラフィたちと会わなければいけません。
「忙中ブログあり」の境地ですね。
そして、写真を撮りながら、ボルヘスのことを思い出します、
ふーむ、この写真のどこかに神が隠れておられるかも知れないな。
by hologon158
| 2016-10-16 22:45
| ホロゴン外傳
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