669.05 ホロゴン外傅184「2016年10月11日スピードパンクロ50㎜F2も奈良町で」5 人形浄瑠璃
11月8日火曜日、文楽公演でした。
人間国宝の人形遣い吉田蓑助師匠が引退するまでは、
夫婦で通うことにしようと、二人で約束しています。
今日の出番は「艶容女舞衣」(はですがた おんな まいぎぬ)
蓑助が遣うお園は30数年の間に2度見ていますが、
まさに絶品でした。
そこには、人間よりも生き生きとした艶やかなお園が居ました。
ただし、今回演じるのはお園の夫の愛人三勝。
お園は彼の弟弟子桐竹勘十郎が遣います。
残念。
こうやって共演することで、チューターとなって、
自分の芸を後輩に伝えようとしておらえるのでしょう。
でも、なんでもそうです。
至芸は真似ができず、人に伝えることもできません。
彼ほどの至高の境地にまで上り詰めた芸術家は、
あらゆるジャンルを通じて、ほとんどいない、とさえ思えます。
彼を知る人は、だれもが不思議を感じているはずです。
まだ、文化勲章をもらっていない!
歌舞伎ではすでに8人ももらっているのに、
文楽は2014年に義太夫語りの竹本住大夫師匠がもらっただけ。
そんなに人形浄瑠璃ってマイナーなのでしょうか?
でも、こう言っては失礼ですが、
住大夫師匠を超える義太夫語りを私は3人聞くことができました。
でも、蓑助を超える人形遣いは知りません。
この数年の間に必ず受賞されると信じたいものです。
演目は①増補忠臣蔵、②艶容女舞衣、③勧進帳安宅の関の段。
歌舞伎と演目はかなり共通しています。
江戸時代の芝居作家近松門左衛門は世界的な悲劇作家、
そう言っても過言ではありません。
悲劇の本質は、出来事がどうしようもなく連鎖していくところにあります。
ああもできたのに、こうしたらよかったのに、
といった考慮が入り込む余地がない。
そうとしかやりようがない、そんなプロセスが
主人公をラストまで容赦なく引っ張っていきます。
アイスキュロスたち古典ギリシアの悲劇作家、
シェークスピアがそうした悲劇を生みだしました
近松もそうです。
だから、近松や、いくつもある文楽の最高の演目、
仮名手本忠臣蔵もそうですが、
これらは物事の仮借なき連鎖が一本通っています。
でも、たいていの文楽の演目の筋立ては実にでたらめで、
ご都合主義で、納得が行かないものが多いのが残念。
今回の出し物もそんなものばかりでした。
こうなると、筋はどうでもよいから、
人形遣い、義太夫語り、三味線の妙技を楽しむ境地になってしまいます。
名人芸を楽しめたのは、やはり蓑助と三味線の人間国宝寛治。
お二人とも、最初の印象は、「ああ、衰えたなあ..........」
蓑助師匠は、下駄が重いのでしょう、
気のせいか、三勝がよろよろして、ただの人形という感じ。
寛治師匠の三味線の弾きだしは、弦が緩んでるんじゃないか?
一瞬そう思ってしまうほど、頼りなく、かすんだサウンドでした。
ところが、クライマックスに至ったとき、
三勝は死を覚悟して、凛とした気品を漲らせる女性に変身し、
寛治師匠の三味線は裂帛の気合いを漂わせる緊張感で高潮し、
お二人の芸は闇を切り裂く光のように輝きました。
「至芸」という言葉はこんな瞬間にとっておきたいものです。
そんな瞬間に立ち会えて、私たちは幸せでした。
人間国宝の人形遣い吉田蓑助師匠が引退するまでは、
夫婦で通うことにしようと、二人で約束しています。
今日の出番は「艶容女舞衣」(はですがた おんな まいぎぬ)
蓑助が遣うお園は30数年の間に2度見ていますが、
まさに絶品でした。
そこには、人間よりも生き生きとした艶やかなお園が居ました。
ただし、今回演じるのはお園の夫の愛人三勝。
お園は彼の弟弟子桐竹勘十郎が遣います。
残念。
こうやって共演することで、チューターとなって、
自分の芸を後輩に伝えようとしておらえるのでしょう。
でも、なんでもそうです。
至芸は真似ができず、人に伝えることもできません。
彼ほどの至高の境地にまで上り詰めた芸術家は、
あらゆるジャンルを通じて、ほとんどいない、とさえ思えます。
彼を知る人は、だれもが不思議を感じているはずです。
まだ、文化勲章をもらっていない!
歌舞伎ではすでに8人ももらっているのに、
文楽は2014年に義太夫語りの竹本住大夫師匠がもらっただけ。
そんなに人形浄瑠璃ってマイナーなのでしょうか?
でも、こう言っては失礼ですが、
住大夫師匠を超える義太夫語りを私は3人聞くことができました。
でも、蓑助を超える人形遣いは知りません。
この数年の間に必ず受賞されると信じたいものです。
演目は①増補忠臣蔵、②艶容女舞衣、③勧進帳安宅の関の段。
歌舞伎と演目はかなり共通しています。
江戸時代の芝居作家近松門左衛門は世界的な悲劇作家、
そう言っても過言ではありません。
悲劇の本質は、出来事がどうしようもなく連鎖していくところにあります。
ああもできたのに、こうしたらよかったのに、
といった考慮が入り込む余地がない。
そうとしかやりようがない、そんなプロセスが
主人公をラストまで容赦なく引っ張っていきます。
アイスキュロスたち古典ギリシアの悲劇作家、
シェークスピアがそうした悲劇を生みだしました
近松もそうです。
だから、近松や、いくつもある文楽の最高の演目、
仮名手本忠臣蔵もそうですが、
これらは物事の仮借なき連鎖が一本通っています。
でも、たいていの文楽の演目の筋立ては実にでたらめで、
ご都合主義で、納得が行かないものが多いのが残念。
今回の出し物もそんなものばかりでした。
こうなると、筋はどうでもよいから、
人形遣い、義太夫語り、三味線の妙技を楽しむ境地になってしまいます。
名人芸を楽しめたのは、やはり蓑助と三味線の人間国宝寛治。
お二人とも、最初の印象は、「ああ、衰えたなあ..........」
蓑助師匠は、下駄が重いのでしょう、
気のせいか、三勝がよろよろして、ただの人形という感じ。
寛治師匠の三味線の弾きだしは、弦が緩んでるんじゃないか?
一瞬そう思ってしまうほど、頼りなく、かすんだサウンドでした。
ところが、クライマックスに至ったとき、
三勝は死を覚悟して、凛とした気品を漲らせる女性に変身し、
寛治師匠の三味線は裂帛の気合いを漂わせる緊張感で高潮し、
お二人の芸は闇を切り裂く光のように輝きました。
「至芸」という言葉はこんな瞬間にとっておきたいものです。
そんな瞬間に立ち会えて、私たちは幸せでした。
by hologon158
| 2016-12-08 12:02
| ホロゴン外傳
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