わが友ホロゴン・わが夢タンバール

34.17ホロゴンデイ13「2007年5月12日の西の京」17 被写体には忍び足で近づかなければならない


1931年だと思うのですが、
カルティエ=ブレッソンがライカと出会ったとき、
写真史はこの一人の青年を軸に一回転しました。
スナップと決定的瞬間の時代が到来したのです。
カルティエ=ブレッソンはこう書いています、
「私は出会ったばかりのライカを思う存分愉しみながら、
自由気ままに仕事をした。
ライカは私のまなざしの延長となり、以来一度も手放したことはない。
ぴんと気持ちを張りつめ、現行犯を逮捕するように、
生身の写真をものにしようと、一日中町を歩き回った。
とりわけ、目の前に出現する光景の本質を一枚の写真に収めたいと、
懸命だった」
「光景の本質」って、なんでしょう?
カルティエ=ブレッソンはこんな風に書いています、
「一人一人の眼を始点に永遠に向かってひろがりつづける空間、
それは、私たちに何らかの印象を与えると、
ただちに記憶となって閉ざされ、変容する。
その一瞬を、あらゆる表現方法のなかで写真だけが固定できる」
(カルティエ=ブレッソン著「こころの眼」岩波書店刊より)
私が大好きなのは次の言葉です、
「それがたとえ静物であっても、被写体には忍び足で近づかなければならない」
彼は非常に貴族的な風貌をもち、写真も気品に満ちています。
でも、彼の精神は本質的に自由と平等を重んずるアナーキストでした。
写真をご覧になればお分かりになると思いますが、
いかなるものにも同等の視線を送っているのです。
だから、「とるに足りない些細なものが、写真では重要な主題になる」
私のブログって、彼のこの言葉をまともに受け取った写真で埋まっています。
私の友人も同様の嗜好の持ち主なのですが、
あるとき、親戚に彼の写真集を見せたのです、
見終わったとたんに、彼が言った言葉は、
「なんでこんなもの撮ってるの?」
別の友人も、ドラム缶の写真を見せて、友人からこう言われたそうです、
「もうこんな恥ずかしいもん撮らんといてや」
もっと恥ずかしいものをお見せすることにいたしましょう。

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by Hologon158 | 2008-10-24 00:03 | ホロゴンデイ | Comments(4)
Commented by andoodesign at 2008-10-24 08:11
「とるに足りない些細なものが、写真では重要な主題になる」
んー、最高の言葉ですね!!
Commented by Hologon158 at 2008-10-24 20:44
re)andoodesignさん
こんな言葉を読むと、カルティエ=ブレッソンがますます好きになるのです。
彼の写真がまさにこの言葉を実証しています。
でも、取るに足りない音符が並ぶと、なぜか天上の音楽となってしまったモーツァルトに似て、
カルティエ=ブレッソンの写真は、ほんとうに些細なものを撮って、
天上の音楽を奏でてくれます。
でも、モーツァルトと同様に、その深遠さは、じっくり付き合わないと、
正しく認識されない性質のものです。
カルティエ=ブレッソンの万分の1であってもよいから、
些末なものが音楽にまでたかめられるような写真を撮りたいものですね。

Commented by NK at 2008-10-25 04:06 x
「現行犯を逮捕するように」がピピッときました。これは原文でどうなっているか知りたい、ということで、久しぶりにフランス語を。ああ、まだ夜明け前なのに、本棚をゴソゴソ。
Commented by Hologon158 at 2008-10-25 11:37
re)NKさん
ということは、NKさん、カルティエ=ブレッソンの原書をお持ちになっていて、それが読めるのですね。
羨ましいですね。
私は、フランス語はさっぱり。
カルティエ=ブレッソンの文章は、写真と同様で、
まったく説明なしに、スナップショット風に飛び出してくるので、
どれだけ理解したか、まったく見当がつきません。
写真と一緒に、一生お付き合いするつもりです。