わが友ホロゴン・わが夢タンバール

2009年 07月 27日 ( 8 )

94.42 ホロゴンデイ27「2009年5月2日滋賀木之本も路地裏宝庫」42 どちらをあなたは選びますか?

おもわず笑ってしまいました。
妻がとっている日経の一面記事、
民主党の衆院選マニフェストです。
首相直属の「国家戦略局」(戦争放棄している国で何の戦略かいな?)で、
基本的な政治方針を直轄する、
省庁に与党議員約100人を配置して、官僚を民主党が主導する、等々。
政権党ではないので、言いたい放題言えるのです。
アメリカ大統領府のいいとこ取りをし、政策も実現可能かどうかなど、そっちのけ。
国家戦略局の人材を、省庁以外のどこから調達するのでしょうか?
省庁の助けなしに、どうやって政策の基礎調査、準備作業をし、立案するのでしょうか?
たとえば、与党議員約100人を省庁に配備すると言いますが、
現在でも100人ちょっとしかいないのですから、参議院を計算に入れても、
今回の選挙の1年生議員たちをかなり動員することになります。
みなさん、そんなに有能なの?
2代目、3代目、タレント等々にそんな能力があるの?
各省庁に分配すると、さて、幾人ずつになるのでしょうね?
1人から5人といったところでしょうね?
ほとんどが素人、それが個々バラバラの部署で威張ってみたところで、
海千山千手練手管に長けた官僚連中が情報とノウハウのすべてを握っているのに、
彼らの縄張りの中に孤立無援でいきってみたところで、
なにを主導できるというのでしょうか?
「5つの約束」って、ようするに、有権者の弱みにつけ込んで、
いかにもあなたの悩みは私が解決してあげましょっと言わんばかりの空公約。
現実には全部はとても無理、そんなに簡単にできるのなら、すでにやってるよ。
ということで、はっきり言って、無責任も良いところ。
これって、借金取りたて屋の常套手段なのですがねえ。
でも、有権者の皆さん、きっと心を動かすことでしょう、
「うわっ、民主党って、わたしらの政党や!」
この党、もともと自民党の超保守派から、社民党から、あっちからこっちからとごった混ぜ、
そんな人たちが集まって、ほんとに政権党を担えるのか?
政権とれたとして、なにをするつもりなのか、なにができるのか、とても予測不能なところへ、
このおためごかしの看板をれいれいしく押っ立てる姿を見るにつけ、
ますます気味が悪くなってきました。
かたや、自民党と来たら、マニフェストがいつになったらできるのか?
政権を握っているだけに、現在までの政策をくつがえすような公約を出しても、
自分の首を絞めるだけ。
思い切った政策を公約したいけれど、首脳部に党をまとめる力がまったくない。
やっぱり、私が前に幾度か書いた対立構図が鮮明になってきた感じがします。
無責任 対 無能力
口から出任せ 対 無為無策
どちらをあなたは選びますか?
私の心は、今回の枯草同然に、希望ゼロ状態。

c0168172_2146355.jpg
c0168172_21464338.jpg
c0168172_2146518.jpg

by Hologon158 | 2009-07-27 23:18 | ホロゴンデイ | Comments(0)

94.41 ホロゴンデイ27「2009年5月2日滋賀木之本も路地裏宝庫」41 ラファエロは茫然自失してしまった

c0168172_2033180.jpg

ルネサンス期のもっとも優れた画家とされたのは誰か、と言えば、
ラファエロでしょうね。
ラフェエロはもちろん天才です。
でも、天才は天才を知るものです。
ヴァザーリは、あの有名な「ルネサンス画人伝」(白水社)で、こう書いています、
「レオナルド・ダ・ビンチは、男の顔を描かせても女の顔を描かせても、
他者の追随を許さぬものがあり、とくに人物の優雅さや動きにかけては、
他の画家たちを遠く引き離している人だが、
彼の作品を見たときに、ラファエロは驚嘆し、茫然自失してしまった。」
そこで、ラファエロは、レオナルドの作風を研究し修得しようとするのですが、
ヴァザーリは、他の誰よりもレオナルドに近づいたけれども、ついに及ばなかった、
そう結論づけているのです。
私もそう思います、ラファエロの聖母は他の追随を許さぬほどに優雅で美しい。
でも、レオナルドの女性は神品なのです。
それぞれに異論はおありでしょうが、今回のラファエロの聖母は、
彼が描いた聖母、女性の中でも飛び抜けて美しいと私は思います。
完璧なる傑作。
でも、ラファエロは自分がレオナルドに遠く及ばないことを知っていたのです。
どの女性の絵を見て、茫然自失してしまったのか?
ヴァザーリは書いていません。
もちろんモナ・リザかも知れませんが、ラファエロがこれを見ることができたか、
疑わしいところです。
私はこれではなかったかと思うのです。

c0168172_20311625.jpg

レオナルドが一時重用されたミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロの愛妾であった、
チェチーリア・ガッレラーニであろうとされている、「白貂を抱く婦人」像。
実は、このとても利発で凛々しい横顔を見るにつけ、
我が家の末娘の静がもし人間であったなら、チェチーリアに似ているだろうな、
そうかねがね考えてきた、私お気に入りの女性なのですが、
この2枚を比較してみていただきたいのです。
もちろんラファエロも美しいのですが、どこか空疎で絵空事という感じが残ります。
レオナルドは違います、実在感が溢れている!
この女性の表情を見れば見るほど、
そうだ、レオナルドの前で、貂を抱いてポーズをとったのだろうな、
この表情で、成り上がりのイル・モーロを手玉に取ったのだろうな、
そんなことまで感じさせるほど、麗しい生気に溢れています。
2人の手を比べるだけでも、優劣は明白ではありませんか?
こんな比較はナンセンス、2人は比較を絶する偉大な画家だったと分かっているのですが、
どうしてもこんな風に感じてしまうのです。
もしあなたがラファエロのファンだとしたら、ごめんなさいね。

c0168172_2104215.jpg
c0168172_2105050.jpg
c0168172_2105877.jpg
c0168172_211757.jpg

[後書き]
でも、次回に取り上げるドローイングをもしラファエロが見ることができたら、
やっぱり仰天しちゃったのじゃないかな?
by Hologon158 | 2009-07-27 21:05 | ホロゴンデイ | Comments(0)

94.40 ホロゴンデイ27「2009年5月2日滋賀木之本も路地裏宝庫」40 思わず溜息が

c0168172_1813587.jpg

ドローイングで好きなものは?
そう尋ねられますと、このボッティチェリを思い出します。
ピンクがかったペーパーに描かれたペン画。
はじめて見たとき、思わず溜息がでました。
なんて優雅なんだろう!
彼の最高の絵の女性たちとまったく同じ歩き方。
下半身を見ただけで、ボッティチェリ以外の何ものでもない、
そんな風に確信できる、えもいわれぬ軽やかな足取り。
手をつないでいる坊やがちょっといかついのもご愛敬。
油彩の完成作が見つかっていないので、
いわば未完の大作の挫折を証拠立てるデッサンなのかも知れません。
でも、ベールのような薄衣の下にあたたかな肉体を確かに感じさせる名作です。
ダ・ビンチの作品同様に、ちょっときずがあります。
左手が長すぎませんかねえ?
でも、ダ・ビンチ同様、主人公の顔の美しさは神品。
そして、例によって、私がかってに考えるのですが、
薄衣や髪の毛の繊細な流れをご覧下さい。
これこそ、風を描いた作品なのです。

c0168172_18133025.jpg

by Hologon158 | 2009-07-27 18:14 | ホロゴンデイ | Comments(0)

94.39 ホロゴンデイ27「2009年5月2日滋賀木之本も路地裏宝庫」39 機転を利かせると、嫌われるよ

今日は、月2回の陳小林先生の揚琴伴奏レッスンの日でした。
先生が二胡を演奏し、私が伴奏する練習です。
もう1年近く、まったく同じ曲5曲だけをとっかえひっかえ練習しています。
ほんとうは1曲だけでもいいくらいで、
5曲もできるのは贅沢に見えて、非効率的なのかも知れません。
私の方が揚琴を付虹先生から教えていただき、少しずつ上達するにつれて、
伴奏の面でも、陳小林先生の要求度が上がってくるので、
別の曲をするのは問題外という状態。
私が書きたかったのは、このことではありません。
練習中極端にのどが渇きます。
陳小林先生、親切にお茶を出してくださるのです。
今日は、レッスン室が2階から3階にチェンジされ、お茶を置く小テーブルがない。
陳小林先生、お茶を持ってきたけど、置く場所がないので、
揚琴の蝶番式右脇カバー(弦を結ぶ釘を隠しています)を開いて載せようとしました。
でも、カバーは、開くと、下向きに傾斜して、載せられません。
先生、紙をぎゅっとまとめて、カバーの蝶番の隙間に押し込みました。
すると、カバーは見事水平になって、お茶を入れたカップがめでたく載りました。
私、ちょっと感動しました。
こんな風に問題に突き当たって、意表を突く創的な解決法を考案する人、
近頃、見たことがなかったからです。
実は、私の妻と末娘たち(人間の末っ子と猫の末っ子2人とも)は揃いも揃って、
こんな風な独創的解決法を瞬時に考案する名人。
私にはなぜかこの3人の才能は遺伝しなかったのですが。
陳小林先生に、「久しぶりに独創的な解決法にぶつかって、ちょっと感動しました」
先生、実は発明家でもあるのですが、うれしそうに、
「この頃、こんな風に自分なりの問題解決をする人って、出会いませんね。
日本人で出会ったことがありません」
そうですね。
これは一種の機転ですが、
日本の社会では、機転の地位は低いようです。
なにか問題があると、みんなで集まって、会議をする。
上役は下役に問題解決を委ね、順次、その委託が下降していく、
これが日本のやり方。
機転を利かして、なんでも自分で解決してしまう人は出世しません。
子供の頃から「右へならえ!」の号令で育ったせいでしょうかねえ?
おっと、今でも、そんな号令、使っているのでしょうか?

c0168172_17113718.jpg
c0168172_17114558.jpg
c0168172_17115330.jpg

by Hologon158 | 2009-07-27 17:16 | ホロゴンデイ | Comments(0)

94.38 ホロゴンデイ27「2009年5月2日滋賀木之本も路地裏宝庫」38 寂しく、侘びしい

外国人が日本人について驚くことの一つに、
日本人が確固たる思想、主張を持っていないことがあります。
利発で勤勉、理解力があって、仕事はきちんとできるけど、
膝をつきあわせて話してみると、自分の意見がなにもない。
協調の姿勢だけが目立ちます。
「おっしゃるとおりですね」の一点張りで、自分の意見を言わない。
言わないというより、言えない!
集団の中に融けこむことにたけているけれども、自分自身は出さない。
ひょっとしたら、ないので、出せない。
バックグラウンドがなく、根っこがなく、バックボーンもない!
どこかほかの国に行ってみてください。
ときには、日本人に賢さでは劣ることがあっても、
あれこれのことにしっかりと自分の意見があります。
人間としての姿勢が正しく、他の人と意見が違うことをいとわない。
中国人や韓国人は日本人に賢さも資質も勝るとも劣らないので、
断然個性的で、積極果敢。
もっとも近頃の若者はかなり自分の個性を持ちはじめているようです。
でも、なにかを話し合う共通の基盤とか基礎的な教養はうかがわれません。
この点は世界共通の悩みかも知れませんが。
テレビ等のテンポラリーな話題とかニュース以外、話をすることができない。
近頃、世界でも通用する仕事をする日本人もかなり出現していて、うれしい限りですが、
それが日本人一般に対する敬意を高めるのに役立っているかと考えますと、
心もとない感じがします。
国自体が、国際政治上、経済力に見合った指導的役割をまったく果たせていないからです。
日本の政治家、外交官に、諸外国の見識のある人々に敬意を抱かせるだけの、
職業、地位を超えた人間的な大きさ、迫力、魅力を感じさせる人がいるのでしょうか?
居ても、稀ではないでしょうか?
寂しいし、侘びしいし、
これからの日本を考えると、怖ろしい感じがします。

c0168172_1540274.jpg
c0168172_15401432.jpg
c0168172_15402234.jpg

by Hologon158 | 2009-07-27 15:42 | ホロゴンデイ | Comments(0)

94.37 ホロゴンデイ27「2009年5月2日滋賀木之本も路地裏宝庫」37 ちょっと惜しい気持ちが

c0168172_11591698.jpg

ドローイング、いいですね!
いろいろな人のドローイングを集めていますが、
なんと言っても、白眉はレオナルド・ダ・ビンチですね。
別にいくつもダ・ビンチのドローイングの傑作がありますが、
私のお気に入りは、「聖母子と聖アンナと聖ヨハネ」
なんと言っても、聖母の美しさが神々しい!
おそらくルーブルにある名画のためのデッサンなのでしょうね。
聖母が、母親である聖アンナの右膝にほんのちょっぴり寄りかかっている辺り、
聖アンナの天上を差してすっくと指を立てた左手の位置と大きさ、
このあたりがとてもアンバランスで、
そこに気を取られると、ちょっと精神的バランスを失いかねませんが、
細部に集中してみましょう。
なんと生き生きと生身の人間が浮かび上がってくることでしょう!
聖アンナが我が子であるマリアを見つめる、悲しみを込めた母性愛の視線、
(聖アンナは、我が子がいつか孫を失うことを知っているようです)
マリアが我が子を見つめる、やや超然とした慈しみの表情、
(聖母は、我が子が聖なる存在であることをまだ知らないらしい)
将来を予見するかのような、聖ヨハネのイエスを見つめる視線、
そして、イエスは、すでに聖性を備えているかのように、聖ヨハネを祝福する、
(2人は、すでに知っているのです)
生き生きとしたドラマが眼前に展開します。
ダ・ビンチが画家として生涯精勤していたとしたら、
美術史はどんなに巨大な変化を被っただろうか?
ちょっと惜しい気持ちがします。

c0168172_1221738.jpg
c0168172_1202238.jpg
c0168172_1202953.jpg

by Hologon158 | 2009-07-27 12:01 | ホロゴンデイ | Comments(0)

94.36 ホロゴンデイ27「2009年5月2日滋賀木之本も路地裏宝庫」36 まず苗木を植えなさい

古代ユダヤ人にとって、子弟を教育することは民族存続の要でした。
ユダヤ人にとって、神の与えたもうた戒律がなんであるかを知ることが第一でした。
そのような解釈の仕事をし、子弟を教えたのがラビ。
はるか以前に読んだので、細部を完全に忘れてしまったのですが、
ローマ帝国内で唯一独立を認められていたユダヤ王国は帝国に叛旗を翻し、失敗します。
ローマ帝国はユダヤ人を離散させます、これが民族離散(ディアスポラ)ですが、
ほんの一握りのユダヤ人だけがユダヤの地に残留を許されます。
その長であったラビが皇帝に願い出たことはただ一つ、
学校を10校、作ることを許してください。
たしかこんなことだったと記憶しています。
学校があれば、民族は再建できる、そう信じていたのです。
このラビは憎むべきローマの皇帝にすり寄ったとそしられ、多くの弟子たちは離反します。
でも、結局、このおかげで、離散したユダヤ人は精神的な中心を持つことができたのです。
学校が民族存続の基盤となったのです。
戦後日本が犯した大きな失敗の一つがここにあったと私は考えます。
日本政府と日本人は、経済復興こそ日本の基盤であり、
学校は、経済を支える人材養成の手段であると位置づけられました。
簡単に言いますと、精神よりも物質を重んじたわけです。
政治経済工業のための人材はたしかに養成されました。
でも、その陰で、精神、文化は完全になおざりにされてしまいました。
人間とはいかにあるべきか?
日本の文化はどうあるべきか?
そんなことはどうでもよろしい、というわけです。
その結果、なにが起こったか?
文部省は予算最少の劣等省庁となり、教師は軽んじられ、
学校は社会の根幹から外れてしまい、ただの子供生育機関となってしまいました。
学校は、人格形成の場ではなくなったのです。
当然、人格とか人間性とかを重んじる気風、環境もなくなってしまいました。
政治家たちが口を開くと、とんでもなく的外れで、人間性を疑わざるをえない言葉が飛び出す、
各党の主導的政治家を見ても、その風貌、風格は貧弱で、
一国をあずかろうとするリーダーとはとても思えない。
彼らこそ、日本の最強の人材、戦後政治の精華であるべきなのに!
もう一度、学校を考え直すべきときが来ているのではないでしょうか?
さきほどのラビは、おそらくラバン・ヨハナン・ベン・ザカイという人。
彼にはとても美しい言葉が残されています、
その言葉を噛みしめてみる必要があるのではないでしょうか?

「もしあなた方が苗木を手に持っていて、
誰かがあなたにメシアがそこに居ると言うなら、
まず苗木を植え、それからメシアを歓迎しなさい」


c0168172_10494223.jpg
c0168172_10495093.jpg
c0168172_10495868.jpg

by Hologon158 | 2009-07-27 10:55 | ホロゴンデイ | Comments(0)

94.35 ホロゴンデイ27「2009年5月2日滋賀木之本も路地裏宝庫」35 もう幾つ寝ると?

№33で、磯江毅の言葉を紹介しました、
「物は見ようとしたときにはじめて見えてくるのです」
実はこの言葉の前に、重要なことを述べているのです。
「表現するのは自分ではなく、対象物自体である。
その物が表現している姿から、どれだけ重要なエレメントを読み取り、
抽出できるか?
角膜に受動的に映る映像を根気よく写す行為ではなく、
空間と物の存在のなかから摂理を見いだす仕事だと思うようになったのです」
なんだか私がいつもロボグラフィについて書いていることと似ています。
もちろん、摂理という言葉は私にはとても理解不能です。
でも、私に向かってアリアを歌う路傍のものたちの姿を、
そのもののもっとも美しい姿として写し取ることは、
磯江の言葉とそんなに隔たりがあるとは思えないのです。
少なくとも、写真を撮る私、絵を描く磯江が主体的、主導的に作っていくのではなく、
ものそのものをして語らせたいと考えているあたりは似ています。
結果は、磯江の残した百数十点は傑作ばかりであるのに対して、
私の方は、おびただしい数の、ただの素人写真なのですが、
私にとっては、私の写真の評価はどうでもよろしい。
私は、路傍で出会ったものたちの堂々たる姿を写真にとどめることができた、
ただそれだけで十分なのですから。
磯江は、この言葉を2004年4月の大阪での個展カタログに書いたのです。
冒頭の言葉の後に、彼はこう記しました、
「今年で50歳を迎えるとはいえ、
まだまだ作家として発育途中である自分を痛感する今日この頃です」
彼はこの個展から3年後の2007年9月23日に、53歳で世を去ります。
この言葉を書いたとき、彼にはあと数枚の絵を描く時間しか残されていなかったのです。
こんなことを知りますと、私もまた思わざるをえないのです。
私がホロゴン15mmF8でロボグラフィを楽しむ時間が、
あと幾日残されているのだろうか?
c0168172_22403285.jpg
c0168172_22404172.jpg

by Hologon158 | 2009-07-27 00:43 | ホロゴンデイ | Comments(0)