わが友ホロゴン・わが夢タンバール

2009年 08月 05日 ( 3 )

98.14 ホロゴンデイ29「2006年6月24日大阪今里にはほんとの路地裏が残っていた」14 いかに生きるべきか?

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前回のように、ちらりとでも死のことを考えると、連鎖反応があるようです。
仕事から帰り、郵便ポストを調べますと、見慣れぬ事務所からの通知。
ふっと過ぎる不安。
開いて、予感は的中しました。
大学の先輩で、その後一緒に仕事もしたこともある、尊敬する先輩の訃報でした。
70歳、社会的にかなり活躍した人でした。
どうやら3年もの闘病の甲斐なく亡くなったようです。
誰も死に神に勝つことはできないのですが、ちょっと早すぎる死、
やりたいことが一杯あったことでしょうに...
この瞬間、この現在、世界中、宇宙中で、数限りない存在が生き、そして死んでいるのです。
不死の世界がどこかにあるかも知れません。
でも、宇宙空間の成り立ちを考えても、誕生から死までのサイクルが宇宙の普遍現象。
いかなる存在も、その存在をおう歌する時期もあれば、
ある瞬間、その生の終焉を迎える時期もあるのです。
自分の番がいつ、どこで来るのか、誰にもわからない。
こんな風に考えると、一瞬一瞬が大切に見えてきます。
死後、別のサイクルが待っているのかいないのか、誰にも言えません。
生の次元が死の次元よりもよいという保証も実はありません。
でも、私は、死によって、私のサイクルは終わると仮定すべきであると考えます。
次のサイクルが待っていたら、また、がんばるより仕方がない。
でも、待っていなかったら、「なんだ、生きてる間、もっとがんばれば良かった」
なんて、慚愧の想いを抱くことさえもできないのですから。
というわけで、死後はないと仮定しますと、現在の生は唯一無二の大切なものとなります。
私たちに大切なことは、何をするかではありません。
たとえば、私たちは誰もがシュヴァイツアー、マザー・テレサのように生きるべきでしょうか?
宇宙の果ての存在にまで、そんな使命を要求するわけにはいかないでしょう。
私たちは、たいてい、平々凡々たる人生を歩むことになります。
そんな私たちとって、自分の置かれた環境で最善を尽くす、
少なくとも、自分の人生を自分らしく生きたと言える、そんな人生を歩む。
そのとき、心を込めて精一杯生きる、これこそ成すべきことではないでしょうか?
そう考えますと、自分の心が選んだことをもっと大切にしなければということに気づきます。
私は、他のいろいろなものも選らんだのですが、
写真も選んだのです。
では、写真人生をどう生きるべきでしょうか?
これも人それぞれに、自分の道を歩むべきでしょう。
私はどうやらホロゴン人生を選んだようです。
まっしぐらホロゴン道を歩いて行ってみましょう。
デッドエンドかも知れないし、途中、ふっと消えてしまう道かも知れない。
でも、終わりがないかのように、楽しく脇目を振らずに歩き続ける、
これしかないようですね。
少なくとも、これだけは言えます。
カメラをもって、五体満足、戸外を自由に歩き、そのうえ、大好きな写真を撮らせてもらえる!
今はひたすら、この幸せを噛みしめたいですね。
by Hologon158 | 2009-08-05 21:45 | ホロゴンデイ | Comments(0)

98.12 ホロゴンデイ29「2006年6月24日大阪今里にはほんとの路地裏が残っていた」12 全員ふらふら

月曜日夜は、陳少林先生の合奏レッスンでした。
8人ばかりの二胡の方が集まり、名曲「良宵」を練習しました。
そこで、いつもながらですが、あることを確認しました。
私が揚琴で伴奏します。
陳少林先生抜きの二胡で演奏しますと、
8人の二胡の音がやや乱れて聞こえて、
揚琴のテンポに合わせているかどうか不安になってきます。
すると、私も安心して弾けないので、二胡を必死に聞きながら、
二胡のテンポに合わせようとします。
それが伴奏の本来の仕事なのですが、
肝心の二胡のテンポが定まらないので、揚琴のテンポもふらふら、
つまり、全員ふらふらすることになります。
ところが、陳少林先生の二胡が参加したとたん、事情は一変。
陳少林先生の二胡が、安定感あるテンポでしっかりと耳に届いてきます。
だから、私も安心して揚琴を二胡に合わせて弾けます。
すると、他の二胡奏者も安心して、このテンポに乗ってこれます。
私がもっと上達して、テンポを自在にコントロールしつつ、
揺るぎなく安定したテンポで揚琴を弾けるようになったら、
常に揚琴がテンポをリードすることができるようになるでしょう。
揚琴の一拍目が二胡の出だしの合図になるようになれば、
そのときが、揚琴が本来の伴奏といえる仕事をすることになります。
それまでは、陳少林先生が揚琴の伴奏をしているようなものです。
それにしても、立派な演奏家が演奏するときの安定感には尋常ならざるものがあります。
体のなかに絶対的な時計、メトロノームがあるのです。
カラヤンが指揮した1989年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートで、
キャスリーン・バトルがおそらく生涯最高の名演を行えた理由、
ここにあるのではないでしょうか?
世界最高のマエストロが世界最高の管弦楽団を指揮してバックアップしてくれる!
その気分はまさに天馬空を行くようなものだったのではないでしょうか?
怖いものなし!
矢でも鉄砲でも持ってこい!
私もそんな気分で演奏したい!
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by Hologon158 | 2009-08-05 17:58 | ホロゴンデイ | Comments(0)

98.11 ホロゴンデイ29「2006年6月24日大阪今里にはほんとの路地裏が残っていた」11 私は古代人か?

私が前回書きましたことで、私という人間の度し難い単純さが暴露された、
そうお感じの方も多いことでしょう。
私は、現代人の複雑な精神構造をまったく理解できないのかも知れません。
アンビバレンツだ、両義性だ、相補性だ、アンニュイだ、不安だ、無意識だ、などという、
屈折して複雑な精神状況を説明する概念がまったく分からないし、分かりたくもない。
ですから、現代の日本文学もさまざまな現代研究書も、私には無縁。
むしろ「仁義礼知信」とか「徳性」の方がわかりやすいし、いまでも価値があると考える、
度し難い旧式人間なのです。
でも、念のため申し上げますが、私は、政治的には、絶対に右翼でも保守でもありません。
人種差別、女性差別、動物差別等、すべての差別に絶対反対、自由平等公平を愛する人間で、
あくまでも日本国憲法を尊重し、第九条の平和主義、戦争放棄を無条件に信奉する人間です。
私のロボグラフィも、前に書きました「万物平等主義」に基づいています。
つまり、人間とものとを差別することだって、嫌いなのです。
なんか、この人、おかしいんじゃないの?
外野席から、そんな声も聞こえてきます。
これほどの複雑化した世界で、これほどの単純な人間というのも、
結局は「おかしい」ということなのでしょう。
第一、おかしい人間でないと、路地裏ばかりに集中し、
こんな写真ばかり撮り続けるわけがない!
精神科医がそのうち、私のことを診断して、即収容措置の手続を開始するかも知れませんね。
それまで、がんばってもう少しロボグラフィを撮っておきたいものです。
でも、入院治療中、パソコンでインターネットさせてくれますかね?
ちょっと心配になってきた。

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by Hologon158 | 2009-08-05 00:21 | ホロゴンデイ | Comments(0)