わが友ホロゴン・わが夢タンバール

2009年 08月 20日 ( 4 )

102.01ホロゴンデイ31「2005年11月12日大阪御堂筋の週末は暇で暇で」1 ついに秘密がばれた!

次は、大阪の中心街御堂筋に参りましょう。
いよっ、待ってました、都市景観が見られる!
なんて方には、ご期待に沿えず、もうしわけありませんね。
あくまでも、私はロボグラフィだけの人間なのです。
シティセンターに居ても、見えてくるものは路地裏と同じ。
普通は撮らないな、と誰もが感じるようなものばかり撮ってきました。
まあ、お暇な方、見てやってください。

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さて、私には大きな秘密がありました。
これをいつ打ち明けるべきか、ずっと悩んでいたのです。
妻に?
とんでもない!
妻に秘密はありません。
なぜか?
ただちに突き止められるから!
「全部顔に書いてある」、妻はそう言います。
とんでもない強力な奥さんなのです。
まあ、聞いてください、この前も...
おっと、話がそれそうになりました。
というわけで、とてもデンジャラスなので、妻に秘密は作らないことにしています。
揚琴の付虹先生に、ある秘密を持っていたのです。
先生に習い始めたのが一昨年11月末。
完全な初心者のくせに、私は、まもなく音楽会に4回も出演。
伴奏を習っている陳少林先生のグループで、和歌山、神戸、奈良で、伴奏をしました。
四川省の大地震のチャリティーコンサートにまで出てしまいました。
最後のコンサートは、奈良教会のチャペルで180人ばかりの聴衆を前にして、
二胡の名曲「良宵」を伴奏したのです。
それも一日に二回も!
大胆不敵! 傍若無人? 暴虎馮河でしょうか?
演奏が終わって舞台の袖にひっこんだときのことです、
コンサートの主役のお一人、中国人のソプラノ歌手が満面笑みを浮かべて、
拍手しながら迎えてくださって、「よかったわよ!」
これは忘れることのできない思い出。
今から考えると、完全に冷や汗ものですが、なぜか、私はちらりとも動揺せず。
4回とも、まったくあがらなかったのですから、伴奏向きなのである!
でも、付虹先生に完全にサラの状態で教えていただいているのに、この脱線!
心の中では、手を合わせていたのであります。
このたび、付虹先生が陳先生の大阪教室の発表会の伴奏をされることになりました。
発表会といっても、ほとんど演奏会の形式です。
そのプログラムを付虹先生がごらんになったのです。
悪事は必ずばれますね。
今日お伺いすると、先生、「陳先生の陽関三畳の伴奏をするんですね」
ば、ばれたか!
王維の有名な「西の方陽関を出づれば、故人無からん」あの詩に付けた二胡の名曲。
これはなんとも余韻嫋嫋とした美しい曲なのです。
二胡の旋律もすばらしいのですが、揚琴の伴奏がまた猛烈に美しい。
私、「すみません。聞いていただけませんか?
そして、伴奏してもよいものか、確認していただけませんか?」
本来のレッスンが終わったあと、
私が練習してきた二曲「良宵」と「陽関三畳」を聞いていただきました。
先生、横で二胡の旋律を見事に歌ってくださいました。
伴奏者は、主旋律を完全に自己のものにしていなければならないのですね。
おかげで大変に弾きやすく、先生の歌を伴奏するような形で演奏を終わりました。
先生、きっといやな顔をされるだろうと覚悟を決めていたのです。
ところが、先生、「すごい! 全部暗譜して、一つも間違わずにちゃんと弾いている。
これなら、伴奏、ちゃんとできます!」
先生のマンションから大阪駅に向かう電車内で早速陳少林先生に報告のメールを送りました、
「陳少林先生のご指導のおかげです。ありがとうございます」
すると、さっそく返事、「努力のおかげですよ」
そんなわけで、今、私は天国にいるのです。
すみません、自慢話でした。

[追記]
今回の写真、どんな状況か、お分かりにならない方もおいででしょうね。
中之島の公会堂の前の大通り、信号でバイクが停まりました。
カップルのヘルメットが輝いています。
青信号で横断歩道を渡り、バイクの後ろを通り過ぎながら、
後ろの女性からせいぜい50センチの距離で一枚。
これと似たヘルメットをかぶったギリシア兵は、密集陣形(ファランクス)を組みました。
その理由はこの写真で分かりますね。
背後からの攻撃に弱かったのです。
仲間に背後を守ってもらったというわけです。
by Hologon158 | 2009-08-20 21:16 | ホロゴンデイ | Comments(0)

101 ホロゴン画帖17「十毘帖毘沙門の霊験あらたかと虎うなづき」

信貴山シリーズは44回約150枚と、ちょっと長かったですね。
もう飽きた、ホロゴン写真にも飽きた、そんな声が聞こえてきそうです。
私のブログが一年間終始不人気ブログに低迷しているのも、
ある意味では、そのせいでしょうね。
ある方と一緒に写真を撮り歩いたことがあります。
お昼頃、ははーんという顔でこうおっしゃいました、
「いやー、もう分かりましたよ。どこでどんな風に撮るのか、全部予測できますよ。
要するに、赤いものを見たら、ホロゴンをぐっと突き出して、目の前で撮る、それだけですね」
私、「もう、分かってしまいましたか? ようするに、深みがないんです。もうしわけない」
路傍に転がっているものだったら、たいてい撮る、
撮り方は、超接近水平垂直撮影法だけ。
これじゃ、分かるなと言っても、無理というものです。
撮り方が予測可能ということは、撮れた写真もそんな方には予測可能なのでしょう。
私の写真は、たいてい、すぐに飽きられます。
「なんだ、またゴミ箱か」というところ。
それが、撮っている本人には、撮るものがつぎになにになるか、ぜんぜん予測できず、
いつも出会い頭の正面衝突風に新鮮な驚きで向かい合い、
撮れた写真はすべて、私にとっては意想外で、うれしい驚き。
このギャップが私の「ど素人性」をいかんなく証明しているわけです。
今回の十画帖も、そんな飽きられやすい写真を並べてみました。
そう、あなたにはもう完全に見抜かれていますね。
(ああ、あなたが来なくなるのも、時間の問題か?)

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by Hologon158 | 2009-08-20 18:12 | ホロゴンデイ | Comments(0)

100.44ホロゴンデイ30「2009年5月30日毘沙門天のお膝元信貴山に遊び」44-完-そもそも人間がいない

どうもよく分からないことがあります。
どの芸術分野でもよく似た事情だと思うので、絵を考えてみます。
これまでの幾世紀、数知れぬ画家が輩出しました。それぞれに独自のアートを展開しました。
でも、一時代をとってみますと、
互いに独自性は保ちつつ、かなり似た傾向の絵を描いています。
ルネサンスを考えていただければ、納得いただけるはず。
ボッティチェルリもダ・ビンチもラファエロもジョルダーノも互いに違いますが、
その次の時代の絵、たとえば、レンブラント、ベラスケス、デューラーたちとは
一線を画する共通性が感じられます。
これが様式というものかもしれません。
言い換えると、一時代の想像力には一定の限界、枠があるように思われます。
ところが、20世紀後半から21世紀にかけて、ちょっと事情が変わってきたのでは?
そんな感じがするのです。
そんな想像力の枠がとっぱずされてしまったという感じ。
絵でも、まさに何でもあり、何でも許される時代。
絵と造形との境まで外されてしまうケースもあります。
絵とはかくあるべきだという暗黙の合意はどこかにふっとんでしまいました。
とにかく人と全然違う、人が考えたことのないものを描こう!
異例なので、奇抜で驚きに満ちている。
予測がつかないので、とてもおもしろい。
でも、絵からあるファクターがなくなってしまいました。
私には、それが「人間」であり、「ヒューマニズム」であると思われるのです。
想像力が爆発しました。
その原動力は、ピカソたちキュービズムの画家にあるように思われるのですが、
その結果、人間的ファクターまで爆発してしまったのです。
これはピカソたちの責任ではありません。
絵を見て、人間について新しい洞察を得たり、人間性についての新しい思想を開いたり、
ああ、この人生きてるなあ、生きてるっていいなあ、などという感慨をもったり、
そうだ、ぼくもこんな風に生きたい、生きなきゃ、などと志を持ったり、
そんなことは起きない。
ルネサンスの絵は人間の偉大さの表現でした。
現代の絵には、そもそも人間がいない。
それは、明日なき混沌のなかでの、人間不在、人間性の崩壊を物語るようです。
私にはどうやらこういうことではなかったかという感じがしてきました。
20世紀前半までは、人間性の向上と文明の進歩、文化の発展との間には平行関係がありました。
だから、絵も、人間に対する信頼に裏打ちされて、人間性を表現することが暗黙の前提でした。
そこで、絵には、人間を表現するという暗黙の枠があったのではないでしょうか?
この世で一番価値のあるものを表現する、想像力はそこに集中していたのです。
ところが、テクノロジーの進歩が引き出した破壊的な威力が、
両次世界大戦、その後の冷戦、民族紛争を限界なき破壊に追い込み、
科学の爆発的な進化は人間不在、不要の世界を作り出しました。
現在、人間はこの歴史的な変化についていけずに、混沌の中で右往左往するだけ。
今では、人間よりも混沌、変化、破壊の方が強烈なのです。
絵は、こうした現代的状況を描く方向に爆発的に移行してしまった。
でも、そのような表現の手段、方法は未知です。
誰もそんなものを表現しようとしたことがないのですから。
だから、想像力の枠組みは取り払われてしまったのです。
なんでもいいから、やってみよう!
でも、私にはすべての芸術の根幹はコントロールであると考えます。
抑制と節度が芸術的な香りを与える、優れたものがそう思わせてくれます。
なんでも抑制なく、やりたい放題やってしまうのであれば、
それは芸術ではなく、ただの自己表現。
子供がだだをこねて、わっと泣き出したのと変わらないじゃありませんか?
だから、現代芸術はつまらないのです。
(新時代の人間から見れば、古い規範で生きていることを暴露する一文なのでしょうね)

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by Hologon158 | 2009-08-20 16:24 | ホロゴンデイ | Comments(0)

100.43ホロゴンデイ30「2009年5月30日毘沙門天のお膝元信貴山に遊び」43 ほんと好きなんだ!

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私は現代画がまったくピンときません。
心の中にどんと入ってくるものがないのです。
無理して、分かろうとするなんてつまらない。
観た途端に、「わっ、いいっ!」
こうこなくちゃ、どうしようもない。
分かる分からないなんて、私には問題じゃない。
分かったからといって、名画だなんて言うことはできない。
分からなくたって、良いものは良い!
パウル・クレーの絵は、分からないけど良い、そんな典型。
たとえば、この絵「パルナッソス山ヘ」
ギリシアのアポロン神の住まうあの神の山なのでしょうか?
私もデルポイに行ったときに、パルナッソス山を見ました。
いかにも神聖な山という雰囲気がありました。
クレーのこの絵は、山の形がパルナッソス山にかなり似ています。
でも、なんと快い色たちなのでしょう!
この絵を言葉でなにか説明しろ、解釈してみろと言われても、無理。
私は、「ああ、気持ちがいいなあ!」これしか言えません。
クレーは、新聞紙にだって描いたそうです。
私は彼のことはほとんど知りませんが、絵を見ていて、いつも思うことは、
クレーって、絵を描くのがほんとに好きだったんだな!
そんな風に感じさせてくれる画家って、そんなに沢山いないのです。
私もひそかに思うのです。
僕だって、そうだな。
「写真は別段巧いわけじゃないけど、
ほんとに写真を撮るのが好きなんだ」
見る人がそう思ってくれたら、言うことないな!

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by Hologon158 | 2009-08-20 00:30 | ホロゴンデイ | Comments(0)