わが友ホロゴン・わが夢タンバール

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479.00 ホロゴン画帖165「十汎帖 奈良町とスピードパンクロの相性いかに?」



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奈良の住人である私にとって、
市内の路地という路地は縄張り、
そう言いたいところですが、30年近く済んでいるのに、
隅々まで渉猟したとはとても言いがたいところです。

どうしてもお気に入りのストリートからストリートへと、
自然に足が向いてしまいます。
その上、路地裏も、その住人たちもどんどんと変化しています。

    「年年歳歳 花相似たり、歳歳年年人同じからず」
    この詞そのままに、路地は変化していきます。
    大げさに言えば、暗い人ヘラクレイトスに習って、
    「人は同じ路地に二度入ることはできない」のかもしれません。

人は、自身、時々刻々、日々、変わっていきます。
自覚的に努力しない限り、自堕落に退化するだけかも知れません。
気を付けないといけませんね。

でも、写真の場合、レンズが変わるだけでも、
使い手の私もまた変わります。

    そのレンズにふさわしい心構え、姿勢、スタンスがあるからであり、
    そのレンズ独特の描写性が私を鼓舞したり、意気消沈させたり。
    
スピードパンクロは明らかに私を鼓舞してくれます。

    このレンズのしっとりと幽玄に近い落ち着きは、
    奈良の古いストリートにしっくりとかみ合ってくれる感じもあります。
    画帖にそんな高揚感が表れていたらよいのですが。
by Hologon158 | 2013-11-30 23:53 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

478.22 ホロゴン外傳124「2013年11月16日 奈良町でもスピードパンクロを使ってみた」22-完-作り手の魂



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森岡督行「写真 誰かに贈りたくなる108冊」(平凡社)

おもしろいですね。
写真の可能性って無限大なんだな、という印象を抱かせてくれます。

中でも一番楽しかった記事は、

    著者ご自身の写真集専門古書店開業のいきさつを書いたエッセイ、
        「森岡書店開業のこと」

    新しい事業を開くときに、
    どんなに細い綱渡りを敢行しなければならないか、
    どんなに人との、ものとの、場所との出会いが大切か、
    そして、どれほどの眼力と気力を必要とするか、
    そんなことを考えさせてくれます。

この本は、森岡さんが出会った人たちに、
その人にふさわしい写真集をおすすめする形で編集されています。

    たとえば、アンリ・ジャック・ラルティーグの写真集は、
    趣味的なアイテムを扱うショップを経営するスタイリスト、
    ソニア・パークさんに。

そのお勧めの文章の中にとてもすてきな言葉を見つけました。

    あるインタビューの中で、ソニアさんがモノを選ぶときの基準として、
    「作り手の魂」を挙げ、
    「なにかを見たときに
    その作った人の思い入れがなければ伝わってこないと思います」
    と仰っていたことが印象的です。

「作り手の魂」という言葉自体は昔から言われてきたことで、
別に新しいアイデアではないのですが、

    機能一点張り、メカニカルデザインの現代にあって、
    この言葉があてはまるものがまだ残されていることがうれしいですね。

現代でもさまざまな分野で、その言葉を感じさせてくれる製品に出会います。

私がすっと思い出すのは、初期iPod。

    手で持ち、握り、撫でさすると心が和む、
    そんなメカニズムはそんなにたくさんありません。

アンプではメリディアンのCDプレーヤー。

    2個の筐体に別れていたものを長年愛用し、
    その後1個の筐体にまとめられたものに替えて、
    十数年、これをずっと愛用してきました。
    まさか持って撫でさすることはできませんが、
    とても細やかで密度の濃い、アナログ的な感触の音楽を奏でてくれて、
    そのサウンドと漆黒のデザインが絶妙にミックスしていて、
    いかにも人間の道具だなという人肌を感じさせてくれます。
    そんな風に愛したくなる日本製って、あまりないのではないでしょうか?

昔に飛びますと、ソニアさんが言った言葉がどんぴしゃり当たるのは、

    バルナック・ライカですね。

    手の中にすっと収まり、感触がとてもあたたかくて、
    しかも、とてもスムーズに作動し、
    持っていることに誇りと愛情を感じ、
    使えることに喜びを感じることができる、
    稀有のメカニズム。

そして、なによりもまず、写真には「作り手の魂」が色濃く現れますね。

    最初に書きましたアンリ・ラルティーグの写真には、
    作家のあたたかさ、寛やかさ、慈しみ、そんなものがいっぱい詰まっています。

どうだ、すごいだろ、驚け、と言わんばかりの写真はごめんです。

    デジタルカメラがモデルチェンジされるごとに、
    そのような写真の生産機械がどんどんと進化しているようで、
    私にとっては、ますます無縁の世界に遠ざかっていきます。
    それとともに、ますます写真家の世界とも遠ざかっていくようです。

    それだけにますます写真ど素人の境地に徹して、
    完全にプライベートな思い入れだけから、
    自分の心にそっと寄り添ってくれる、
    私一人のための写真を撮り続けたいという気持ちに燃えてしまいます。
    
かなり不細工な仏頂面の女の子が写っている写真があるとしましょう。

    だけど、その子は、
    天使のような心映えの、神様のプレゼントのような、
    撮影者のいとし子なのです。
    それが分かる人には、その写真は、その子を思い出す引き金となり、
    その子が生き生きと眼前に浮かび上がるのに、
    その子にじかに会ったことのない人には絶対に分かりませんね。

私の写真は全部そんな写真なのです。
はっきり自信を持って言えます、

    あなたには、私が私の写真に感じていることを知ることはできません。
    なぜなら、私ではないのだから。

ソニアさんの言葉は、いわばユニバーサルな共感の可能性を秘めていました。
それなのに、その言葉から出発して、絶対非共感の境地に達するのですから、
おかしなものです。

    すべての写真家は、写真を、
    心と心を結びつけるコミュニケーションツールであると考えています。
    私は別な風に考えます。
    
        私の心と私の周囲にあるものたちとの親密な個人的関係のツール。

    作り手が私自身なので、
    そして、撮った瞬間のことを覚えているので、
    間違いなく魂を感じることができる寸法。

あなたは言うでしょう、

    おまえは間違っている、
    おまえの写真はただのゴミだ。

私はいつもの通りお答えするだけ、

    さよなら。
by Hologon158 | 2013-11-29 18:39 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

478.21 ホロゴン外傳124「2013年11月16日 奈良町でもスピードパンクロを使ってみた」21 ホワイトアウト




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若杉冽「ホワイトアウト」(講談社)を読み終わりました。

絶望の書と言ってもよいようです。

    福島原発事故が発生したにもかかわらず、
    いかなる反省も、教訓を生かすこともなく、
    ひたすら原発王国を維持しようとする東電と、
    東電の管制下に置かれて、東電とともに利益をむさぼろうとする
    政府、官僚たちの無際限、無法の画策の数々がリアルに描かれています。

国家機関はすべて国民の福祉、平安のために奉仕すべき使命の下にあることなど、
彼らは完全に忘れ去っています。

    第二次世界大戦に突入していった日本陸軍の官僚システムとまったく同じ。
    学歴、成績だけで選抜される日本のエリート機構は、
    自己の属する機関の存立と自己の栄達だけを追求することになります。
    国家、国民の福祉に奉仕するという観点は最初から抜け落ちています。
    我が社の繁栄と自身の出世だけを原動力とする日本のエリート社員たちと
    まったく同じメカニズム。

「ホワイトアウト」はそんなエリート官僚、社員が原発の再稼働に向けて、
ありとあらゆる無法な画策、策謀、陰謀を繰り広げる姿を赤裸々に、
まさにリアルに描き出します。

    彼らの行動、思考には、福島原発と同種の事故の再発を防止しようという観点は
    いっさい抜け落ちています。
    事故再発の予防のための経費など、
    見せかけのための演出以外には一円も出す意志がない。
    なにがなんでも、自己の利益を守り続けようとする観点しかありません。

そんな必要などまったく感じていないのです。
なぜか?

    日本国民はすぐ忘れてくれるからです。
    自分の小さな幸せを享受するのに精一杯で、
    福島原発のことなどきれいさっぱり頭の中から拭いさりたい、
    いやなこと、不安なことなど知りたくない、
    それがほとんどの国民の姿勢。

その証拠は簡単に見つかります。
あなたに質問しましょう、

    原発事故の後で、ニュースや情報に接しない状態で、
    進んで福島原発事故について自分から考えたことがありますか?
    この事故に関する本を一冊でも買い求めたことがありますか?

95%の人は答えるでしょう、

    「そんなことをしたことなんかないよ。
    どうしてそんな必要があるの?
    専門家に任しておいたらいいじゃないの?」

著者はいくども、絶望的な口調で日本人の忘れっぽさについて語ります。

    彼が声を大にして言っていることは、
    そんな国民だから、東電事故は起こり、また別の事故も起こるだろう。

    この本の最後に、第2の原発事故が起こっても、事態は変わらない、
    「のど元過ぎれば熱さを忘れる。日本人の宿痾であった」

私は専門家ではないのに、このブログで幾度も幾度も原発について書いてきました。

    あれ以来、本書も含めて、かなりの本を読みましたが、
    素人の私が事故当時から書いてきたことに見当違いはほとんどないことを知りました。
    つまり、それほどに分かりやすい事故であり、分かりやすいクライシスなのです。

そのクライシスは今なお高まりこそすれ、弱まる気配などまったくありません。

    たとえば、今、福島では、爆発のなかった4号機で、
    使用済み燃料棒の取り出し作業が開始されていますが、
    4号機だけでも、千数百の燃料棒取り出し作業は、
    これが一つ一つうまく成功しても、来年末までかかるのです。

    でも、使用済み燃料棒の取り出しは一つでも失敗して地面に落としてしまったら、
    もう作業の続行は不可能になるという、一触即発の危険作業なのです。

    その後には、1号機から3号機までの取り出し作業が待っています。
    ところが、爆発で傾いてしまった建屋の屋上にあるために、
    4号機のように接近して取り出しのメカニズムを構築する作業ができない。
    そのために、取り出しの方法がまだ一切見つかっていない状態にあります。

さらに、もっと怖い問題が残されています。

    1号機の取り出し作業は2017年からと予定されているそうですが、
    事故前から損傷して必死で冷やし続けている燃料棒がなんと70本もあって、
    他の3機全部にもそうした損傷燃料棒が数個ずつあり、
    これを取り出す技術はまったく未開発なのだそうです。

つまり、使用済み燃料棒を除去する作業がこれから何年、何十年かかるか、
まったく作業日程が立っていないのです。

    その間、大地震、大津波が再発して、原発の建屋がさらに傾き、
    燃料棒を冷やすことができなくなったり、
    最悪では、燃料棒が貯蔵庫内やその他の床に落下してしまったら、
    これを除去することはできなくなり、
    場合によっては冷却不能となってしまうと、   
    その汚染の拡大状況によっては、
    福島県は文字通り人の住めないバッドプレイスと化し、
    放射能汚染は東京都までも覆う広大な範囲に及ぶ危険があります。
    国家、国民、ひいては世界の総力を結集してもなお解決できない問題かもしれないのです。

でも、政府も東電もそんな手に余る危険性はひた隠しに隠して、
知らんぷりしたままなのです。

    そして、阿部首相のように、平然とウソをつきます、
    「福島原発は完全にコントロール下にある」

なぜか?

    事実を認めたら、原発行政は根底から覆ってしまうからです。
    遠未来における日本の安全と国民の福祉の犠牲の下に、
    近未来における東電の利益の確保をねらっている、
    それが政府と東電の現在なのです。
    
要するに、ちっちゃな自分の生活の安寧にひたすら集中して、
いやなことは全部知らんぷりしちゃいましょ、という国民と、
政府、東電とは精神構造としてはまったく一緒なのです。

「ホワイトアウト」があたえてくれるたった一筋の光明は、

    霞ヶ関の官僚の中にも、再稼働に向けて狂奔する政府、官僚、東電のトロイカに
    怒りを覚えている人がいるということ、
    これだけ。

この人も、現在成立しようとしている特定秘密保護法による逮捕を免れないでしょう。
こうして、日本は天下太平、世に事もなし、の平安を保ち続けることができるのです。
by Hologon158 | 2013-11-29 17:47 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

478.20 ホロゴン外傳124「2013年11月16日 奈良町でもスピードパンクロを使ってみた」20 特性のない男



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ロベルト・ムシルの「特性のない男」という小説があります。

    白水社からたしか6巻本で翻訳が出ていました。
    どうも得体の知れない小説で、途中でやめてしまって、
    引っ越しの際に古書店に引き取ってもらいました。

でも、一つの文章だけは頭の片隅に残ってしまいました。
文脈も記憶していません。

    主人公は、壁のある道を歩くときは、
    必ず肩を擦って歩いたというのです。

まったくうろ覚えなので、それが主人公のいかなる性格を暗示するものか、
まったく記憶していません。
でも、なぜか忘れられないのです。
それどころか、自分でも肩を壁に擦って歩きたいという気分。

次第にこんな意味じゃないか、という気がしてきました。

    何の痕跡も、何の記憶もないままに、
    その日、その日を、
    漫然と、他の日となにも区別できないような生活を送りたくない。
    一日、一日をたとえばピラミッドを築いていくように積み重ねて、
    一日、一日となにかの成長を遂げていきたい、
    そんな意味にとりたいのです。

私が6年ほども師匠について学んでいる揚琴も、そんな肩擦りの一つ。

    才能があって、いきなりプロ並みに弾けるなんてことは夢のまた夢、
    一日一日積み重ねていくことしか、上達の方法がないのですから。

思うに、夫婦関係だってそうです。

    うまく行かない夫婦のほとんどが、
    自分は変わらず、相手に変わってほしいというカップル。
    とても小さな摩擦にもいちいち一歩も引かず激突する日々。
    壁に肩をするのと、夫婦間で摩擦を繰り返すのとではわけが違います。
    
    どんな夫婦でも、当然のことですが、
    出自も家風も教育も性格も人生観もなにもかも違うのですから、
    摩擦は当然。
    だからこそ、事の大小をわきまえて、たがいに譲り合うことで、
    次第に、互いに相手のないところを補い合って、
    夫婦の形が整ってくるものです。

    本当に仲の良い夫婦は、ジグソーパズルのようです。
    とても複雑だけど、隅々まできっちりとかみ合っている。

    それができないまま、勝手気ままに振る舞って、
    配偶者には服従を求める限り、
    そんな夫婦は早晩別れるか、冷たい関係に落ち込んでしまうものです。
    こんな風に夫婦で擦りあって生きるのはよしましょう。

どんな大きな仕事も日々の小さな積み重ねがあって初めて実現します。
そろそろ退職するという時期にあって思うのですが、

    小さな仕事だって同様に、毎日毎日の小さな積み重ねが大切です。
    そして、人間、世間に喧伝されるような大仕事をするばかりが能ではない、
    そう考えたいものです。
   
    誰にも知られない無名の人間にも、
    それなりに生き甲斐があり、
    一人密かに仕上げたい目標があるものです。

さらに、進んでこうも考えたいものです。

    なにも仕上げる目標がなくたって、
    日々、豊かな気持ちで生きることだって、大切じゃないか、
    そんな人生を積み重ねてこそ、
    心の底から生きていてよかったと思えるのじゃないか?

写真でそれを考えてみますと、

    写真家の中には、写真展を生き甲斐とする方がいます。
    お金もかかるし、大変な努力が必要です。
    もう二度としたくないと思うそうです。
    ところが、写真展を無事開催してみると、
    ああ、苦労してやり遂げて良かったと達成感に酔いしれ、
    写真展が終わると、またやりたいと切望することになるのだそうです。
    それも生き方の一つですね。

私もいつかは個展をしたという気持ちがありました。

    今はまったくありません。
    その代わり、写真を撮るという作業が、
    ムシルの「壁を肩で擦って歩く」行為にほかならないことに気づいて、
    うれしくなっています。

そして、ブログもそうです。

    まったく人の訪れないブログですが、
    壁を肩で擦って歩きたい人間にとって、
    その姿を人に見ていただく必要などまったくありません。
    自分で壁を感じることができたら、それでよい。

これからの人生を自分にとって意味のあるものにするため、
なにをしたらよいのか、
このことはどなたにとっても大きな課題なのですが、

    私はこんな風にして、小さな事をさまざまに積み重ね組み合わせて、
    社会の片隅でしっかりと天を見上げて生きていきたいと考えています。

そして、これこそが路地裏のロボグラフィたちの人生なんだ、
そう付け加えたいですね。

    こんな風にして、私もまた「特性のない男」になりつつあるのかも?
by Hologon158 | 2013-11-28 21:36 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

478.19 ホロゴン外傳124「2013年11月16日 奈良町でもスピードパンクロを使ってみた」19 孫道楽



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今週26日は月一回の火曜日休業日。
4日連休の最後の日はゆっくりと自宅でくつろぐ予定でしたが、
いつものとおりの天の配剤で、
昨日風邪で発熱した孫の世話に呼び出されました。
孫と遊べるなら、もうなにもかも振り捨てていい!
いそいそと出かけました。

2歳を過ぎて、言葉もかなり話せるようになった孫は、
完全なる腕白坊主。

    一瞬たりとも休まず家中駆け回って、やりたい放題。
    
今一番大好きなせりふが、「いや!」

    おしめを換えよう。
        いや!
    お片づけしよう。
        いや!
    お昼ご飯食べよう。
        いや!

今、韓流ドラマは「家門の栄光」を楽しんでいます。
名門の家柄「宗家」の当主の部屋には、
今、小学生になったばかりの曾孫が寝泊まりしています。
この二人のやりとりが実にほほえましいのです。

    宗家の当主は穏和ですが威厳のある優れた人物。
    曾孫はその曾祖父さんと対等に渡り合います。
    韓国の子役は、芝居であることが見え見えのせりふ回しの日本の子役と違って、
    完全になりきることができますから、
    二人のやりとりがまるで現実のできごとのようにリアルです。

    その曾祖父さんがあれこれと教え諭す言葉、表情には滋味が溢れていて、
    押しつけがなく、それとなく曾孫に自分で悟らせる風で、
    本当の教育者って、こんなものなのだろうな、と納得させられます。

これに引き替え、私の方は、なんだか孫に鼻面を引きずり回されているような感じ。
えらい違いですね。

    私も10人の子供(うち8人は猫ですが)を育ててきましたが、
    幼児の頃の子供たちはもっとおとなしくて、平穏な子育てでした。
    ただし、今4ヶ月の末っ子のピッピ(シャム猫の血筋が濃い雑種)は
    孫とそっくり。
    でも、孫はちょっと桁外れ。

孫は突然命令を発します。

    「リンゴ」
    「ごはん」
    「いないいないばあ」(のDVD観たい)
    「おーいカバくん」(のCDを聴きたい)
    「ニャンニャン」(iPoneが記憶する我が家の猫のビデオを観たいという意味。
        ほんとは、自分のビデオがお目当て)

そうかと思うと、私の眼前で、突然、
40インチ薄型テレビのラックに飛び上がり、
うなぎのように身体をくねらせてテレビの背後の空間に飛び込みます。
(禁止されているので、わざと、目の前でいたずらするのです)

突然、「いたいな、いたいな!」
いってみると、木製ソファの背もたれの格子の中に
別々に両足を突っ込んで身動きできず。

突然、ソファから床に飛び込んで、全身くるり空中回転して着地。
自分で落ちたときは、泣きもしません。

おかしなことがありました。
3つとも成長を物語るエピソードかも知れません。

① まずは、自分の名前のこと。

    彼のことを名前の短縮形でいつも呼んでいます。
    この日は、彼の名前をそう呼んだら、
    大まじめな顔で私をじっと見上げて、
    自分の名前を、初めてしっかりと発音しました。
    まるで、それが自分の名前なんだから、忘れないように、
    と言わんばかりの表情でした。

② お絵かき。

    ママは毎日子供の1日を表形式の手帳に記載しています。
    その枠外に孫がボールペンで次々と様々な形を書き始めました。
    そして、1つ1つ、指さして説明します。
        「ママ」「パパ」「あーちゃん(父方祖母)」
        「マメー(母方祖母)」「ぺぺ(父方祖父、つまり私)」
    最後にその中心に小さな形をちょろっと描いて、
        「うっくん」(自分のことです)
    見事、自分を中心に取り巻く家族5人の集合図ができあがりました。

    数分後に、この手帳を孫に示して、1つ1つ指さしながら尋ねました、
        「これはだーれ?」
    すると、先ほどと同じ図形をちゃんと指差すのです。

    可能性は2つです。
    ア 5つの画像につき、誰を描いたのか、ちゃんと記憶している。
    イ 5つの画像はそれぞれ5人の特徴を書き込んであって、
    その特徴で誰を描いたのか判断している。

    イは、私には、孫自身のちっちゃな顔以外は、
    その特徴なるものがまったく判別できないので、
    どうやらイではなさそうです。
    アだとすると、2歳にもなると、これ位の記憶力は当然なのでしょうね。

③ カーキチ

    カーキチと言っても、おもちゃの車。
    男の子のご多分に漏れず、TOMIKAのミニカーが大好き。
    その1つ、ロードローラーを棚の上に載って走らせているとき、
    棚の後ろに落っことしてしまいました。
    棚は重いし、棚の背後は狭いので、手を入れることができません。
    彼は「ドードドーダー」と繰り返しながら、指さして、
    「とってくれ」と頼みます。
    午後2時頃落として、1時間50分間の長い昼寝を挟んで、
    3度も私を棚のところに連れて行って、指さしながら、
        「ドードドーダー」「ドードドーダー」

    3か月ほど前にも、本棚の下に走り込ませたミニカーを
    翌日思い出したほどですから、
    ロードローラーの事故は半日程度では忘れないのでしょう。

    パパ宛に孫の名前でメモを残しました、
        「ロードローラーを棚の後ろに落としたので、取ってください」

20数台あるミニカーの車種を全部覚えているわけではないので、
名前を覚えているだけに、なおさら取り返したいのでしょう。

    たいていの名前はこんな風に赤ちゃん風発音なのですが、
    なぜか日産 GT-Rだけは違います。
    もう1か月ほど前から、「これなーに?」と尋ねると、
    流暢な英語風巻き舌で一気に、
        「ニッサンジーチーアール」
    しゃべりやすい発音というものがあるようですね。
    何度尋ねても、
        「ニッサンジーチーアール」
    そのときのちょっと誇らしげな顔。
    自分でも難しい発音がちゃんとできることに気づいているのです。

    私の母が第二次世界大戦中のことを話してくれました。
    フィリピンに進攻したというニュースで、ご近所さんで井戸端会議。
    ところが、誰一人正しく発音できず、
    一同代わる代わる「ピリピン」などと言って、笑い転げたそうです。
    今、「ピリピン」なんて発音する人はいないでしょう。
    こんな風にして横文字言葉が日本文化に浸透していったのでしょう。
    お陰で、幼児まで「ジーチーアール」なんて発音できちゃうわけです。

幸い午後2時半、突然くっと寝込んでくれました。
別れるときが一苦労。

    がっしとしがみついて離れません。
    引き離してママの手の中に移すのが一苦労。
    なんとか引き離してママに抱っこしてもらうと、
    いかにも悲しげに泣き叫び、エレベータの前でもまだ聞こえてきます。

    こんな風に別れを悲しんでもらう間が、花ですね。
by hologon158 | 2013-11-28 15:40 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

478.18 ホロゴン外傳124「2013年11月16日 奈良町でもスピードパンクロを使ってみた」18 天地創造の神



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フォトジェニックという言葉があります。
英語でどのようなシチュエーションで使われるか、知りません。
私たちが使うときは、

    思わず撮りたくなるような光景、
    撮れば、良い写真になりそうな光景というような意味でしょうか?

でも、通常この言葉が使用される場合、それだけではありません。

    写真のことが分かっている人の多くがそう思うだろう、
    そう思える光景に出会ったときに、この言葉が使われるようです。
    これが、いわば公的な意味での「フォトジェニック」

でも、もっとプライベートな意味でも使えるのではないか、
そう気づきました。

    すでにお気づきのように、
    自分の写真の撮り方にもこの言葉を使いたいという気持ちからですが、
    それと言うのも、一般的に、というか、
    全般的に、と言った方が正確かもしれませんが、
    私はほとんど95%、
    いわゆるフォトジェニックとは人が考えない光景、ものを撮っているからです。

でも、人が考えなくても、自分は考えているのです。

    ロボグラフィはきわめてプライベートな写真ですから、
    プライベートな意味でのフォトジェニックだってあっていいじゃないか、
    そう感じたのです。

私は私で、カメラを手にバックストリートを歩くとき、
なんでもかでも撮るわけではありません。

    撮りたいと、心がわっと躍り上がるときにしかシャッターを落としません。
    以前は、ここ撮ろうかと考えて、カメラを構えてファインダーをのぞきこんで、
    「いや、だめだ、やめとこう」ということがよくありました。

    今はありません。
    撮りたいと考えたら、ファインダーで確かめたりしないで、
    さっさと撮ってしまいます。

    以前はカメラを通して「フォトジェニック」かどうかを確認して撮っていたのに、
    今では、まず私の心にかなうかどうかチェックして、
    かなうという答えが得られたら、何が何でも撮ってしまいます。
    撮れた写真はほとんど全部私の心にかないます。

このような発言が、写真家にはべらぼうなナンセンスと映ることは百も承知です。
写真は厳しい選択のプロセスを経て生み出されるものだとされているからです。

私の場合、ちょっと天地創造の神様に似ています。

    私が「よしとされた」ら、もうよいのです。
    
そこで、私の「フォトジェニック」を正確に規定することができます。

    私の場合、
    はじめからフォトジェニックな光景があるのではないのです。
    フォトジェニックかどうかを決めるのは自分だけ。

    私が選んで撮ったら、その光景はフォトジェニックになるのです。

こんな風に考えると、裏通りのなんでもない光景でも、
私がそこにいけば、フォトジェニックになるわけです。

    至極、気楽なですね。
by hologon158 | 2013-11-28 14:54 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

478.17 ホロゴン外傳124「2013年11月16日 奈良町でもスピードパンクロを使ってみた」17 レンズ改造



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日曜日はうれしいことがありました。

おそらく1年を超える期間、
レンズを購入することは中止し、
そのあおりを食って、宮崎貞安さんにレンズの改造を
お願いするのもやめていたのです。

先月、宮崎さんからゾンネタール50mmF1.1Softの1号レンズを送っていただき、
これがバネになって、1週間前、3本のレンズ改造をお願いしたのです。

    1 フレクトゴン35mmF2.4のMマウントへの改造
    2 アンジェニュー28mmF3.5のMマウントへの改造
    3 スイター25mmF1.5の無限遠まで撮影可能にする改造

一週間経たずに帰ってきました。
全部見事な出来。

    フレクトゴンとアンジェニューは、本来のヘリコイドリングを使わず、
    レンズの根本に宮崎さん特性のMマウントアダプタをセット。
    このアダプタはわずかな角度で最短から無限まであわせることができます。
    ライカのフランジバックがすべての一眼レフのそれよりもかなり短いので、
    アダプタを入れる余地があるわけです。
    おかげで、2本ともまるで90mmレンズのように長大になりますが、
    使い勝手は最高。

フレクトゴンは、私が長年コンタックス、イオスに付けて
常用レンズとして愛用してきた名レンズ。

    このレンズ以上に中庸を得たレンズはないのではないか?
    そう思えるほど、過不足なくしっとりとした画像が得られます。

思うに、銀塩時代でのことですが、
ライカ使いはズミクロンよりもズマロンを愛用し、
各社カメラをお使いの方も、
純正の35mmよりもこのレンズを愛用した方が多かったのではないでしょうか?

アンジェニュー28mmF3.5は、茫洋、幽玄の写りで、
これに戸惑ったり、喜んだりと、かなり毀誉褒貶の大きかったレンズ。

    ところが、デジタルカメラで使いますと、
    なぜかコクのあると言うか、癖があると言うか、
    とにかくがっちりと写るレンズに変身してしまいました。
    
これがよくわからないところです。
銀塩カメラで撮ってみたら、また別なのでしょうか?
でも、さいわい私は、その独特の個性的描写が気に入りました。
これから、この2本、愛用したいものです。

最後の1本はCマウントレンズ。

    RXタイプは最短から1mあたりまでしかピントが来ないので有名ですが、
    これをえらく複雑な手順でレンズ後部を改造していただき、
    立派に無限遠まで使えるようになって帰還しました。

    この費用が嘘のように廉価。
    それなのに、改造レンズについてくるレンズテスト表まで付けて
    送り返していただいたのですから、感謝感激。
    ますます宮崎様々です。

宮崎さんの総括的意見としては、一押しはフレクトゴン35mmF2.4。

    「かなり新しい設計で、どこにも問題がありません。
    よく写るレンズでしょう」

私はどちらかと言うと、よく写らないレンズが好みなので、
アンジェニュー28㎜f3.5も楽しみです。

    これから、ゆっくりと楽しませていただきましょう。
by hologon158 | 2013-11-28 14:19 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

478.16 ホロゴン外傳124「2013年11月16日 奈良町でもスピードパンクロを使ってみた」16 言葉が奏でる歌



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前回のついでに、詩、とくに翻訳詩について書いておきます。

前回引用させていただいて、恩を仇で返すようなところがあって、
もうしわけないのですが、この詩だけに限ったことがありません。

    私の常識では、詩とは「言葉が奏でる歌」であるべきです。
    詩を朗読するときにリズムが生まれ、
    心の中にも音楽が流れなければ、
    詩とはとても言えません。

日本古来の和歌にしても俳句にしても、さらには漢詩にしても、
独特の韻律の調べを奏でてくれるものです。
西欧の詩だって、いわゆる自由詩、散文詩、無韻詩をのぞけば、
韻律をしっかりと踏んでいるはずです。

ところが、翻訳詩のほとんどはただの散文でしかありません。

    文章を途中で区切って次に回してみたところで、
    音楽が流れ出るわけでもありませんね。
    かえって、思いの流れがぶつぶつと遮られるだけという感じがします。
    これじゃ、言葉の調べを豊かに奏でてくれるなんてことは期待できません。

思うに、詩を翻訳するためには、
翻訳者自身が詩人である必要がありそうです。

    だから、上田敏の「海潮音」は永遠なのです。

私は現代詩もほとんど読みません。
現代日本の詩人たちはたいてい自由詩のようです。
韻律に頼らず、言葉を音符のように使う方向に進んでいるようです。

私のように、言葉に意味を求める人間には、この方向はつらいですね。

    もし詩が、意味、思想をではなく、
    リズムや情感、気分を表現するものであれば、
    私には無縁の世界だからです。
    私は、詩から新しい発見、生きる力をもらいたい。
    ただの楽しみだけなら、時間つぶしに等しい。

私の思いでは、もっとも想像力をかき立ててくれる詩の第一は、

    道元の「正法眼蔵」

堂々たる思索と実践の書ですが、
その奔放にして壮大な表現の振幅はワーズワースを軽く凌ぎます。

    彼の言葉を完全に詩として受け取り、
    行ごとに分かち書きにしてくれる出版社はないでしょうかね?
    それだけで、もっと呑み込みやすい表現に生まれ変わる感じがするのですが。
    きっと売れると思うんですけどねえ。
by hologon158 | 2013-11-28 13:53 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

478.15 ホロゴン外傳124「2013年11月16日 奈良町でもスピードパンクロを使ってみた」15 メメント・モリ



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ホルヘ・ルイス・ボルヘスの詩

    第三の虎を探すのはどうだろう。これも
    他の虎たちと同様に、わたしの夢の
    形象、人間のことばの
    体系であって、神話を超えたところで
    土を踏んでいる、脊椎動物としての
    虎ではないだろう。よく心得ていながら、
    漠然として愚かしい昔ながらの
    この冒険を自分に課して、
    夕べのひととき、わたしは探し求める、
    別の虎を、詩のなかにはいない虎を。

                    (「創造者」岩波書店)

私は詩がちっとも分からない人間なのですが、
この詩を呼んで、ふっと思いました。

    人間は誰しもこの虎を探し求めているのではないだろうか?
    今の自分をはるかに超越した、別の自分、
    それが虎なのではないだろうか?

汲めども尽きぬ創造の泉を心に満々とたたえている人がいます。

    そんな人にはそんな人の虎がいるのでしょう。
    だから、どこまで行っても満足しない。
    満足したとたんに、ずるずると怠惰と自暴自棄、
    創造力枯渇の泥沼に滑り落ちてしまいます。

自分のなか、どこにも創造の泉など見つからない私のような平凡人にだって、

    そんな自分に気づけば気づくほど、
    超越と脱出への渇望の泉だけはちゃんと隠されていて、
    懇々とわき出てくるものです。
    平凡人は平凡人なりの虎を探し求めることになります。

以前に、死亡率の統計について記事を書きました。

    40歳から69歳までの方が死亡する確率は40数パーセントもあるのです。
    それ以外の年齢層もそれなりの死亡率を記録しています。
    つまり、老齢になるまで生き延びる人は少なく、
    超高齢になるまで生き延びる人ははるかに少ないのです。

これはなにを意味するか?

    あなたも私も、どんな年齢層であっても、
    明日命を失う危険を常に抱えて生きているのです。
    この緊張感を忘れないことです。

小学生時代、夏休みの残りがどんどん減っていった頃のことを思い出してください。

    人生は毎日が毎日、夏休みの終わり頃なのです。

    だから、虎を探したければ、明日にしてはならない。
    今この場で探さなければいけないのです。
by Hologon158 | 2013-11-27 22:12 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

478.14 ホロゴン外傳124「2013年11月16日 奈良町でもスピードパンクロを使ってみた」14 のびのびと



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昨日は付虹先生の揚琴レッスンでした。
いつも通り、冷や冷やものの綱渡り。

    2曲の宿題をなんとか終わり、
    5段階評価のトップ「ヤッター」の判を通帳に押していただきました。
    でも、私の内心の評価は5段階評価の6番目、「ヤレナカッター」

この世でもっとも堅い仕事に数えられる仕事をやってきたおかげで、
どうも心の奥底どこまでもカチンコチンになってしまった感じがします。
その上、師匠の前で弾くというのは怖いものです。

    揚琴はあくまでもしなやかに滑らかに弾く楽器です。
    どんな楽器でもそうなのですが、
    金属弦をスティックでたたくということ自体が、
    ともすると音を固くする要因となります。
    それだけに、よけいに心と手が固くなると、
    耳障りな金属音になってしまいます。
    リラックスしようとすればするほど、固くなりますね。

    普段はまだ手が回っているのに、
    こうなると、反動ではなく、手でたたいてしまいます。
    それに気を取られると、今どこを弾いていたか、見失ってしまいます。
    目の前におかれた楽譜を視線が右往左往します。
    すると、ますます音は固くなります。
    こんな受難のサイクルに落ち込んでしまい、さんざんでした。
    どうも私という人間、ナイーブなのです。

そんな私の現状をご存じなので、
近頃は、ことさらやさしく弾く曲を選んでくださいます。

    今回の宿題は「小城故事」
    テレサ・テンで有名な歌の揚琴版。

ああ、次回はなんとか汚名を挽回しなくては!
と、こんな風に力むと、
ますます受難のサイクルに落ち込むばかりですね。

    「じゃりんこチエ」のマサル君だったか、
    写生に出かけて、「のびのび」「のびのび」と
    賢明にかけ声をかけている姿に重なりますね。
    そんな風にならないためにも、
    なんとかのびのびとしなきゃ!
    (と、なおさら受難にサイクルにずぶずぶ....)
by Hologon158 | 2013-11-26 22:29 | ホロゴン外傳 | Comments(0)