わが友ホロゴン・わが夢タンバール

2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!


私はロボグラフィを撮ります。
本当に愛する人は写真には撮れません。
記念撮影はできますが、絶対に実像には及びません。
だから、携帯で記録するだけ。
大切な記憶は頭脳の中に収めておくほかには、
保存する道はありません。
だから、ロボグラフィを撮る。
日々の散策の途中で出会ったものたちを撮ります。

写真作品を作る気持ちなど、
はるか以前になくなってしまいました。
「作品を作る」という行為はまさしく写真家の行為です。
正確に言えば、写真家にプロもアマもありません。
写真作品をなんらかの形で公開するために売るとしても、
自分の作品で金を儲けたいと思っても思わなくても、
写真家であることに変わりはありません。
要するに、写真作品によって、人になにかをアピールしたい、
そんな気持ちを持って、撮影現場に臨み、写真を撮る人が写真家。

自分の写真で人になにかをアピールしたい!
そう思わない人が居るでしょうか?
居ます。
それが私です。
私はだから、写真家ではなくて、
ただの「写真好き」「写真道楽」です。

でも、私のブログに掲載している写真と、
一般にストリートフォトと称される写真とは、
あまり変わりが無いじゃないか?
そう疑問に思う人も居るかも知れません。
勿論、その通りです。
一枚の写真であれ、百枚の写真であれ、
写真そのものだけを見て、
「作品製作する写真家か、ただの一人道楽のど素人か」
これを区別することはできません。
撮影者の気持ちが区別を生みます。
刀でもピストルでも同じ区別を生み出します。
武器であることは間違いがありません。
でも、絶対に人に向かって使わない。
だけど、コレクションしたい、そう考える人が居ます。
写真も同様です。

まず、言えば、
写真は写真です。
ストリートでシャッターを切れば、三歳児が撮っても、
撮るときの状況次第では、
なにか見応えのある写真が撮れるかも知れません。
でも、それはただの外野席の印象。
写真というものが、原則として、
カメラ、レンズを媒体として撮るものであるとすれば、
その行為自体に区分、違いなどありません。
違うのは、撮れたものをどう扱うか、という撮影後の行為と意図。
カルティエ=ブレッソンのような作品製作家は、
「写真作品」、「視覚的ドキュメンタリー」等々、意図は別として、
写真を使って、なんらかのアピールをする作品を製作します。
自分の作品を観る他者の視線を意識しています。

素人はそんな作品製作など無縁です。
「ああ、撮れた撮れた!
あのときは良かったなあ!
この写真は良い記念になりそうだなあ」
つまり、ただただ自分のメモワールとして撮って居ます。

最初の最初から、実は、このスタンスでした。
写真を始めて数年目に、私は宮崎県の小さな都市に赴任しました。
関西から離れたことがなかった私には、
新鮮な撮影対象がごろごろ転がって居ました。
ここで、私の写真愛は燃え上がったと言えそうです。
小さな写真クラブにも入会し、撮影会にも参加して、
風光明媚な自然の撮影も楽しみました。

でも、最初の最初から、私がしなかったことがありました。
① 風景写真家になること
② 写真作品でコンテストに応募すること
つまり、最初の最初から、
私は、写真で人と競争することはしませんでした。
写真は自分で一人楽しむこと、これに尽きたのです。

現代は競争社会です。
私の職場でも、そんな闘争は盛んでした。
私は最初の最初から、自分のしたい仕事を楽しんで居たので、
出世して名声を上げたい!
なんて、とんでもご免、というところでした。

どこでもそうでしょう。
出世したければ、仕事を終えてから、あるいは休日に、
引き立ててくれる上司に奉公しなきゃ!
例えば、飲酒とか、ゴルフとか、テニスとか、麻雀とか...
私はこれらすべてを一切しない人間でした。
そんな上司そのものがあまり居ない職場でした。
それに、就職後ただちに結婚したので、家庭が天国でしたし。
そんな訳で、私は一種の変わり者だったのかも知れません。

こんな状態を総合して、判ることは、
私はかなり社会性が欠如している人間だった!
でも、今、翻って考えてみますと、
私の人生にとっては、これが幸いしたかも知れません。
前にも書いたことがありますが、
組織の中に安住した人たちは、いざ退職すると、
社会の中での自身の安住の場所を失った気持ちになるようです。
このコロナ社会となって、
高齢者たちの姿はますます頼りなげになっています。
私の住宅地では、男性の姿を見ることは稀。
高齢のご婦人ばかりが歩いています。

古い家が取り壊されて、
新しい家に建て変わる例がとみに増大しつつあります。
要するに、新旧交代期に突入したようです。
我が家のお向かいさんもただ一人残されていたご婦人が去り、
土地は売却され、旧家の大きな構えの建物は撤去され、整地され、
今、中間線にブロック塀が設置されつつあります。
つまり、大きな地所を2分して、二軒のお宅の宅地に変更。
こうして、住宅地の建物と住民が次第に更新されて行くのでしょう。
「一葉落ちて天下の秋を知る」と言いますが、
不動産屋には、
我が家もしばらくすれば去るメンバーに数えられているのでしょう。
どっこい、そうは問屋が置くものか、と開き直りたい所です。

そんなものがあるとは思えませんが、
もしどこかの国が高高度から日本列島の定点空中撮影をしていて、
その変貌する日本列島の姿を高速度で再現してくれたら、
とくに関東から東海道、近畿、山陽道を経て、福岡あたりまで、
都市域がアメーバのようにと拡大していく姿を見て、
戦慄を覚えることでしょう。
たしか夜間の衛星写真では、上記の都市部は煌々と燃え上がっています。
こんな風に途切れない真紅の地帯が日本ほど続く地域は、
世界中にないのだそうです。

でも、自慢できることではありません。
その変貌の姿は、
人間社会が自然を食い尽くしつつあることを示すからです。
かつては、成層圏から見下ろして見える人工施設は万里の長城だけ、
そう言われてきました。
今では、地球上の夜の地域に光の海が見える地域が
世界各所に出現しています。
でも、その中で、桁外れに大きい海が日本の都市域なのです。

これはなにを意味しているのか?
一目瞭然です。
他の国では、日本ほどに人口集中を進めていないか、それとも、
各大都市周辺に農村等の生産地帯と自然とが残されているか、
どちらかなのです。
日本は、狭い平野の農村等の生産地帯も、
人間空間が覆い尽くしつつあり、
人間社会が必要とする物資の大半を輸入に頼りつつある、
ということなのではないでしょうか?

日本ほど世界平和を生存条件とする国はないのでは?
でも、今、かろうじて東西両勢力の均衡の下に保たれている平和は、
何時、どこを突破口として、破砕されてしまうか?
これからの2、3年、いつ日本を巻き込む東西紛争が起こるか?
予測、予断を許さない緊迫状況になりつつあります。
私は、コロナ禍が去ったときが戦乱期を開くチャンスになるだろう、
と見込んでおくのが安全、そう考えています。
もっともっと長く平和な日々を享受したいのですが......

さて、今回の写真。

ソニーα7
ホロゴン15mmf8
多くのアマチュアフォトグラファーは、
自分が写真家であると考え、
ときには、類稀なる写真家なんだと、心底確信しています。
私は写真を始めて半世紀を超えていますが、
ただの一度も、
自分が写真家であるとは考えたことがありません。
「アマチュア写真家」という言葉があります。
要するに、本物の写真家ではない、ただのアマチュアなんだけど、
自分じゃ、ひとかどの写真家なんだと信じたい人のことです。
ある種の根拠がないわけではありません。

多くの人から、激賞されている。
コンテストでかなりの受賞歴を重ねている。
自分でも、優れた写真家なんじゃないかと思っている。

こんなことが重なると、
「ひとかどのアマチュア写真家」ができあがるわけです。
私はこの「ひとかどのアマチュア写真家」にはなれませんでした。
たいていの仲間が私の写真をどう受け取ってよいのか、
当惑したからです。
私がブログに、いわば「活動の場」を移したのも、
そんな事情からでしたが、
ブログ世界でも、実のところ、同様の反応でした。
つまり、無反応。
ということで、私がブロガーに転身したのは、
まさに大成功でした。
自分一人で楽しめるのですから。




                               
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01352352.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01341904.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01324967.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01324250.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01323112.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01320269.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01312989.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01312051.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01300112.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01294436.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01274410.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01273796.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01270159.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01264765.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01263668.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01255073.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01235359.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01233983.jpg
2364 春だ! (2023年5月5日ホロゴン15㎜F8は奈良公園をウキウキと)ロボグラフィへ!!_c0168172_01233046.jpg




                                                                                                                                                                                                                          


# by hologon158 | 2023-10-24 01:39 | ホロゴンデイ | Comments(0)

2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!


2023年5月14日(日)、小雨、涼しい。

先月来、真向かいのお宅の建て替えが始まって居ます。
私の住む住宅地の地主さんのお一人が高齢となり、
転居となり、大きな田舎家を引き払ったのです。
昔の農家らしく、道から一段高い地所をほぼ占領する、
大きな二階家でした。
「大和の普請倒れ」という言葉があります。
昔からの地域性、「浪速の食い倒れ」「京の着倒れ」に対して、
「大和の普請倒れ」と言われてきました。
その系列を引いた家屋だったかも?
ただし、かなり質朴な家でしたが。
私は、三歳あたりから小六まで、
奈良盆地の南寄りの小都市、大和高田市に住んでいました。
もう遙か昔のことです。
空襲で一面瓦礫だらけ、まだ一部だけが復興の最中にあった大阪に、
よく近鉄電車で出掛けました。
目の大きな、好奇心一杯の少年でした。
あの頃は、こんな目の子供は「キョト」と呼ばれました。
私は典型的なキョトでしたが、
その習性はどうやら終生続いてきたようです。
国家試験を経て得た仕事は、
常に油断なく、目は観察し、
その裏に隠されたなにかを感じ取ろうと、
頭を常に働かせているべき仕事でした。
小学三年についた読書癖が、
私に終生、観察眼を働かせる基盤になったかも知れません。
職業的な速読者ではありませんでしたが、
好奇心から先へ先へとひた走りつつ楽しむ、という読み方でした。
速読は、頁の文字の中から基幹となる言葉をさっと見つけて、
文意を推察する作業です。
ここでも、すべての基礎は観察にありました。
私も、意識してではないにしても、
かなり速読の技術を使っていた用です。
学生の頃は、月間90冊が基準値でしたから。
よくよく考えると、
すべての人間行動は常に観察に頼って居ます。
結局、私は人間の基本的な能力を育成しようとしていたのでしょう。

脱線しましたが、
大阪の繁華街天王寺に向かう近鉄電車の急行は、
当時まだ両窓際各横一列の座席でした。
幼稚園から小学生低学年の頃、電車に乗るのが大好き。
私は必ず靴を脱いで、座席に膝をついて、
夢中になって窓から外を眺めていました。
大和高田市駅を出発してしばらくすると、
電車は谷川沿いに山の中を走ります。
大和の西側の壁となっている山脈を真っ二つに切る、
大和川沿いの谷間です。
必ず進路の左側座席を占領することにしていました。
こちらの方が見応えがあるからです。

大和高田市駅を出て、しばらくは田園の中を走ります。
このあたりに、私の大好きな光景を一つ持っていました。
線路から2、300m南の田園の真ん中に、それは突然出現します。
記憶では、幅30mほどの長い白土土塀に囲まれ、
かやぶき屋根が聳える、とても大きな平屋建て農家。
「奈良屋根」と呼ばれる独特の形の小窓が付いた大屋根を頂く、
豪農の屋敷だったようです。
この屋敷の前には、大和塀と呼ばれる白漆喰壁で、瓦屋根を頂く、
石組みの土塀がせり上がっていました。
農業が国力の基盤であった江戸時代以来の伝統かも?

そして、楽しいことに、このお屋敷のとなりに、
ほとんど同じ大きさ、同じ造りの、
豪農屋敷がもう一軒出現することでした。
つまり、これが典型的な「大和は普請倒れ」現象でした。
豪農達が豪華な自宅を建設する競争をしたのです。
どちらも太平洋戦争後の新築だったようです。
戦時中はこんな贅沢は赦されなかったでしょう。
「そんな贅沢に金を費やすのであれば、お国に献げなさい!」
そう命じられたでしょうから。
つまり、建築資金はちゃーんと隠してあったらしい。
でも、愚かな競争だったようです。
農地改革を経て、多くの地主は余剰の田畑を削られ、
しかも、日本経済の空前の好景気は田舎の青年を都会に誘い、
農業人口は激減し、農業は高齢の旧世代がかろうじて維持する、
副次的な産業の地位に落ちてしまいました。
そして、当主が老いて農業を続けられなくなり、
経済界がさらに労働人口を都会に吸い寄せ続けたために、
小作に出すこともままならなくなって、
大農は次々と没落したいったようです。
ちなみに、この二軒も含めて、
奈良盆地の豪農屋敷はほとんど全部は、
私が何十年ぶりかで奈良に戻ってきたときには、
まだ少し残っていましたが、
おそらく90パーセントは消えてしまっていたようです。

私の子供の頃、大和盆地の山間部から平面部にかけて、
田植えの季節には、水一杯張った田が盆地全部を覆い、
高田から西大寺に向かって北上する近鉄橿原線の西側窓に座ると、
半時間ほどの間、果てしなく水面が鏡のような続く水田地帯。
これに影を落とす鎮守森や部落の鏡面像、
さらにその向こうには、葛城、金剛山系、所々に前方後円墳...
富山から東北までの壮大な田園風景ほどではありませんでしたが、
ある種の郷愁に満ちた光景にすっかり心を奪われたものでした。

小津安二郎の「晩春」のような名画に、
そんな大和の古き良き風景が残されています。
彼の名作の主人公の親の郷里は大和だったのです。
つまり、彼らは私の父と同世代だったようです。
道理で、彼らの振る舞い、姿、語る言葉、話し方は、
私の父とそれと酷似しています!
そして、妻達は私の母親にかなり雰囲気が似ています。
私が小津安二郎の作品を幾度も見直しては、
心から懐かしさを覚えて来たのは、
こうした関係からかも知れません。

でも、ふっと思い返してみますと、
小津安二郎の名作に出現する郷里の姿を心に収めている世代は、
老いも若きもすべて、すでに完全に老境に入ってしまいました。
私も含めて、この世代はこれから10年、20年の後には消えてしまう。
世界での有数に美しい田園と村と町に溢れていた、
古き良き日本の面影、思い出は彼らとともに消え去ってしまい、
過去の記憶を僅かに残す世代も完全に消えてしまうわけです。

地球上のすべての国で同じことが起こっているでしょう。
19世紀の産業革命が起こる前は、
太古から続く往古の姿がすべての国に残されて居ました。
20世紀後半から21世紀にかけて、まさしくロケットの勢いで、
地球上の利用可能な地域という地域は現代化されてしまいました。
例えば、エジプトの三大ピラミッドは砂漠のまっただ中にあったのに、
すでに都市空間と隣接しつつあります。
数十年経てば、都市空間の中に包まれてしまうでしょう。
ほとんどの遺跡は、一時期研究対象とされた後は、
幸運なら埋設され、大抵の場合は破壊されて、
人間の利用できる空間として利用されつつあります。
つまり、いつしか地球の大地という大地は人間空間に作り替えられ、
地下と上空に向かって、人間空間が隙間なく開発されて行く!
川も、砂漠も、山系も、挙げ句の果てには、海まで、
人間が活用する空間に作り替えられ、
あるいは活用するための構造物に覆われるでしょう。
深い海溝部は地球全面都市構造の地下の水タンクにされてしまう。
ハリイ・ハリスンのSF「人間がいっぱい」は、
まさしくそんな現実的未来を描いています。
地球の大地を基礎として何百層もの超高層建築構造が立ち上がって、
その中に超巨大人口が棲息している。
地球人たちは生涯、太陽も空も星空も月も見ることがない。
そして、この地球一体都市には、宣伝、洗脳機能が完備して、
随所に、独裁者が出現するでしょう。
地球全体が完璧なコミュニケーションエリアに成りきってしまうと、
今次のコロナを遙かに上回るパンデミックが随所に頻発し、
何百層もの都市構造の空調設備は超広大なる感染ルートに変貌し、
極めて短時間に、地球全体にパンデミックが蔓延するでしょう。
これをなんとか退治しても、日ならずして、別種のパンデミック!
もしかすると、一種のゲリラ戦法としても用いられて、
パンデミックは地球全体を常時汚染する日常茶飯事と化するでしょう。

その上、人間の根底には、
支配者、勝利者たらんとする野望、党派根性が常に巣食っているので、
血で血を洗う権力闘争、支配戦争、反乱等々も日常茶飯事となる。
戦争、反乱に常に潜む問題点は、
誰もが成功、勝利の可能性を確信して実行し継続することにあります。
つまり、「戦争は常に両者もしくは一方が敗北するが、
誰も敗者が誰か予知することはできない。」
「反乱は、成功するよりも失敗する可能性の方が高い。」
と言った歴史の教訓を想起しつつも、誰もが成功に当て込んで、
事前に実行を中止する者など居ないことに、問題の核心があります。
つまり、地球上にはいつまでも、
戦乱、裏切り、敗北が満ち満ちることとなりそうです。
前半に懐かしく想起した、私の少年時代の思い出がそうであるように、
地球上のすべての民が自分の少年少女時代の懐かしい思い出に、
べっとり血塗られる未来がすぐそこに来ている、
そんな感じがします。

さて、写真。


ソニーα7s
スーパーアンギュロン21㎜F3.4

よく書くことですが、
このレンズ、ホロゴンよりもダイナニックな描写です。
私の現在の撮影法は、ファインダーも見ず、被写体も見ず、
ひたすらすれ違いに、伸ばした手の先で当てずっぽうに撮る方法。
要するに、居合抜き撮法。
でも、居合いの達人は、鞘から瞬時に抜きだした剣を振るって、
対戦相手を容赦なく切り捨てます。
一度も写真の達人になんかならず、ひたすら偶然に頼って、
撮影結果のすべてを天の賜物としてありがたく拝受する、
私の撮影法は、作画意図も、作画方法論も一切捨象して、
偶然にすべてを託する「完全素人撮法」。
つまり、どんな写真が撮れても、
私の人生の一コマなのです。
他人には無意味、無価値でも、
私には意味があり、価値がある。

実のところ、よくよく思い出して見ますと、
私は半世紀前、写真を始めた頃から、
似たような撮り方をしていました。
最初からカルティエ=ブレッソンや木村伊兵衛に魅せられて、
ストリートフォトに徹してきたのですが、
人を撮る場合でも、かなり接近して撮りたい。
でも、接近して、ファインダーを覗きながら撮るのでは、
最初から、撮影することがバレてしまいます。
人によっては、いやがるかもしれません。
でも、当時は、ストリートフォト撮影法の参考書など皆無でしたから、
結局は、撮り方は自分で見つけるほかはありませんでした。
こうなると、傑作写真など一切目指さない私には、
ノーファインダーでの当てずっぽう撮影という、
いわば無手勝流が一番気安い撮り方。
レンズに撮ってもらうのですから、
私は早い時期に完全など素人ホビーという
気楽な立場に安着したようです。
だから、いつまでも続けることができるわけです。




2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21572671.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21445966.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21571662.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21570874.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21565661.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21564813.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21563947.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21560234.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21532694.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21490577.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21485228.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21445966.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21444870.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21443931.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21441935.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21441000.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21435694.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21432191.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21430448.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21424712.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21423172.jpg
2363 普請倒れ(2023年5月5日奈良町にスーパーアンギュロン21㎜F3.4のなにかが...)僕は撮り倒れ!!_c0168172_21420940.jpg






# by hologon158 | 2023-10-21 22:02 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!



2023年4月28日(火曜日)、快晴、でも、涼しい。
毎夜午前2時前後に就寝して、午前8時起床。
幾度か書いていますが、
私はおそらく世にも稀なほどの完全熟睡型です。
例外なく、瞬時、入眠し、
瞬時、覚醒し、さっと起床します。
中途で突然覚醒し、トイレに立つことがありますが、
幾度これが起こっても、瞬時入眠できるので、
あたかも睡眠し続けていると同様の感じです。

子供の頃はそんなこともなく、完全熟睡でした。
私ほどの瞬時入眠熟睡瞬時覚醒型人間はあまり居ないかも?
それだけ、私は幸せな人間なのでしょう。
翌日が国家試験の合格発表という夜も、
瞬時入眠したことを覚えて居ます。
研修期間満了の卒業論文試験が5日間続きました。
その中間に週末が挟まれていました。
これぞ、天の救いでした。

当時はまだ土曜日は半ドンの時代。
お休みは日曜だけの時代です。
試験は土曜日も行われました。
金曜日の夜、発熱しました。
かなりの高熱で、おそらくインフルエンザでした。
私は、38度の熱を押して、受験しました。
完全に受験できないと、たしか3か月後に再試験。
とんでもない、高熱であろうと、知ったことか!
試験は完遂するぞ!
フラフラ高熱で、なにを書いたか覚えていません。
朦朧と帰宅し、その日と日曜日、水枕で布団にくるまって、
ひたすら熱を下げることに没頭しました。
幸い最後の試験日、月曜日朝には平熱に復し、
なんとか普通に受験出来ました。
私はこうして無事卒業して、
子供の頃から目指していた職に就くことが出来ました。

でも、その職の任地、昇格は、後で知ったことですが、
二回試験の成績によって大きく左右されました。
私はインフルで何科目かは朦朧状態で解答しましたので、
席次はかなりズレ落ちてしまったことでしょう。
お陰で、就職後の任地、昇格にかなり響いたかも知れません。
エリートコースは東京を初任地にすることで始まります。
私はもとより初任地希望は関西でした。
職業でも考え方でも終生野党コースだった訳です。
それが私の希望でもあったので、希望通りの任地。
このようなトラブルも私には単なるアクシデントでした。
もしかすると、
上記のインフル挫折は天の計らいだったのかも知れません。
仕事と出世のためには、
家族を含めて、人生の歓びをひとまず棚上げする職場にあって、
私は、涼しい顔で、妻を愛し、家族を愛し、
一家団欒を楽しみ、自分の人生を楽しみました。

何処にあっても、週末は写真三昧、
三週間の夏期休暇の半分は撮影旅行、
そんな人生の楽しみを尽くしながらの職業生活が出来たのは、
私が、肩肘を張らない自由人で、
家族と共に人生の楽しみを尽くせる人間だったからでしょう。

思うに、地位と出世に人生を賭ける人は、
必ず到来する退職の後、目標を失います。
趣味もその他の人生の楽しみも、家族との団らんも捨てて、
ひたすら宮仕えに徹してきたのです。
そんな人が退職後その目標を失って、
突然、人生の歓びに目覚めて、
おのれの人生を享楽し尽くす、なんてことは起こりません。
退職後は、本物の「余生」になってしまうのです。
つまり、自分自身が余りものになった人間の後半生。
かわいそうに...

前にも一回書いた記憶がありますが、
弟から聞いた悲劇があります。

大会社の部長を定年退職した御仁、
退職後の最初の正月が到来しました。
元旦から元部下たちが参集して、にぎやかになるだろうと予測して、
妻を手伝って、膨大なおせち料理を作りました。
襖を取っ払って、3室ほどの大広間にして、
料理を並べて待ちました。
例年は昼食時から夕食時まで、
引きも切らず参集した部下たちで沸き立ったのに、
この日は、まさしくネズミ一匹も訪問者はありませんでした。
森閑と静まりかえる座敷に座り、待ち続けた御仁、
落胆失望の余り、そのまま寝込んでしまい、
日ならずして亡くなってしまったとのことです。
人はパンのみにて生きるに非ず。
どうやら地位の誇りによって生きるようです。

その方の葬儀だったかどうかは忘れましたが、
弟は、重職にあって退職し、
日ならずして世を去った人物の葬式に参列したそうです。
参列の部外者は、なんと彼ともう一人だけだった!
無事葬儀が終わり、遺族一同がぞろぞろと建物から出てきて、
参列者へのお礼の挨拶をしたのですが、
たった二人の部外者を数十人の親族がぐるっと取り囲む状態。
弟は、あまりに気の毒で、
その場に穴があったら、隠れたいほどだったそうです。

職場の昇格、出世が、
部下がこぞって尊敬する人間性に掛かっている、
そんな職場は、少なくとも当時の日本にはなかったのでしょう。
今はどうでしょうねえ?

さて、本日。
持参したセットは、

ソニーα7s
マクロスイター50㎜F1.8

私にとって、序列第5,6,7位あたりのレンズです。
でも、レンズの造り、ソフトで優雅な描写力、
なにからなにまで、豪奢と言いたくなるほどに見事。
ある種の秘蔵レンズの風格十分。
このレンズには、その後作られたF1.9の兄弟レンズがあります。
一度使う機会がありましたが、f1.8よりもかなり硬質で、
鮮鋭な描写力でした。
でも、レンズの外観は、高級感あふれる兄貴分とかなり違い、
ある種、普通の仕事レンズ風デザイン、造りに変わっていました。
シャープなレンズを好む方は、F1.9を好みます。
そして、愛好家もより多いようです。
でも、私は断然F1.8派です。
レンズ鏡胴の塗りが格段に上質で、ヘリコイドの動きも滑らか。
他に類例を見ない、芸術的なデザインなのですから。

ただし、このレンズの本来の本体アルパのシャッター位置が、
カメラ前面にあったため、そのシャッターを押すためのアダプターが
エンズにがっちりセットされています。
ソニーα7sに付けるので、このアダプターは完全な無用の長物。
デザインをかなり邪魔して、折角の超高級感を損なっています。
でも、撮影時はこんなレンズ外観も全然気になりません。
たしか2分の1倍のマクロなので、
レンズ鏡胴は2回転半ほどぐるぐる回ります。
つまり、撮りたいものは大抵このレンズ一本で撮れます。

そして、肝心要のレンズ性能はいかに?
もういかなる名レンズにも期待できないような、
ある種のアート的な描写力。
どんな距離でも、描写は滑らかで、
絵も言われぬ色ざわりで、あたたかく、甘い感触。
ソフトで、かつ凛とした品格があります。
もっと頻繁に使いたい名器です。

さて、私は、近鉄奈良駅から奈良市の一番古いお寺、
元興寺までの往還。
かなり多数の海外観光客たちと正面衝突しつつ、
ロボグラフィ撮影を続けました。
日本人はほとんど見かけません。
もちろん居る筈ですが、その比率は微々たるものです。
今や、日本人女性までも歩き方がかなり外股か、それとも普通か、
という時代なので、
中国人、韓国人の区別は外観上はほとんど付きません。
日本人も、ただちにそれと解るのは野暮ったいタイプだけ。

近寄って聞こえてくる会話で、区別するほかはありませんが、
女性たちの体格、振る舞いが俄然活発に成っています。
昔風で言えば、かなり男性的になっていくようです。
歩き方も外股で、ずかずかという感じの足取り。
モンロー歩きは絶無です。
要するに、男女間の格差はかなり縮まって居るようです。
なよなよとしているのなら、
むしろ男性である確率がかなり高い。
そして、危険な傾向として、
男女とも色白で、のっぺりした肌で、
ムーミン風の体形に変わりつつある、
男性は無性風になりつつある、そんな感じがします。
この人たち、栄養が偏っているのです。
若くしてムーミンなら、
高齢になると、アドバルーンに?
第一、若くしてすでにそうですが、
歳をとればとるほど、走れなくなって、
活発な活動に向かなくなってしまいます。
食が贅沢になっていく反面、
運動が劇的に不足しているからでしょうが、
ベースで、遺伝的な肥満体質が優勢化しつつあるのかも知れません。
しかも、この流れは世界共通のようです。
少なくとも、奈良に押し寄せてくる海外観光客たちは、
その体型が上記の日本人と酷似しているダルマ型が
かなり混じっています。
かつては、成人前後より若い男性で、明確な肥満型は、
ある種の特殊例でした。
今はそれが標準例になりかねない勢い。

さて、近鉄奈良駅近くにたどり着きました。
行きつけのホテル付属の喫茶室が近頃のお気に入りです。
楽しいことに、数人居るウェイトレスさんたち、
全員がやや小型で、大きさがびしり揃っています。
フレンドリーで、親しみを持てて、気楽です。
これが180㎝近い大型女性で揃えたら、
誰も怖れて、入らないでしょうね。
この喫茶店の得意技はカレーランチ。
奈良では一番私の好みのカレーです。
(インド、ネパールカレーは例外です)
頂くほどにますます美味しく感じるようになって居ます。

私は、なにしろ、喫茶店の目的がポメラ作文。
どうしても長居してしまいます。
最大限1時間と限定し、席が詰まり始めると、切り上げます。
お見せ側に、「こいつ、邪魔だ」と思わせないために、
私も気を遣っているのです。

もう数店、出入り禁止になってしまいました。
近頃では、JR奈良駅近くの老舗珈琲店。
最後の機会では、自動ドアが開いて、私が入っていくと、
店員さんがすかさずやってきて、
「済みません。
今、店が一杯で、予約がつまっています。
30分以上待って頂くことになりますが...」
「嘘付け!」
一杯空席が有って、順番待ちをしている人なんてどこにも居ない。
要するに、
「あんた、邪魔だから、店に来るな」の丁寧形なのです。
ただちに、私の方もこの店を捨てました。
ちょっと長居しても、いつも空き席はたっぷり残っていましたから、
要するに、シンプルに長居を嫌うらしい。
でも、週に平均1.5回は入り浸って居ました。
月間少なくとも7、8回は利用してきました。
珈琲ばかりではなく、ホットケーキなども取ることが有ります。
数千円の定収入を失った訳です。
この調子で、他の常連も遮断しているとしたら、
収入減はかなりになるのではないか、と思われます。
でも、「長居する常連は駆逐する!」
これが喫茶店営業のポリシーなのかも知れません。
でも、この海外からの旅ブーム、いつまでも続くとは思えません。
彼らがばったり途絶えたら、
かつての常連を失った店はどんどん倒れるでしょう。
(もっとも、現代の商法は定位置常住型ではありません。
希望の客層の移動に応じて、追随する、
客に好み、ニーズに応じて商品を工夫する。
これが成功の条件のようですから、
私の期待に反して、別の場所で繁栄を続けるかもしれませんね)

もう一つ、県立図書館近くの、さらに常連の喫茶店でも、
先々週だったか、
私がいつも使うカウンター前の前面壁の二人席も含めて、
数席まだ空いている状態状態で、
調理スペース直近の二人席に初めて案内されました。
この席、初めて座ったのですが、
ウェイトレスさんが側を通る度にグラグラ揺れて、
かなり不快な席でした。
かなり親しくしていたと思っていたのですが、
今回の意思表示もまた明確でした。
「定席はカップル用。
あなたにはこんな席しか提供できませんよ」
私は、気楽に「私の時間を心置きなく楽しみたい人間」です。
私を歓迎しない場所は、
私にとって、心起きなく自分の時間を楽しむ場所ではありません。
利用ストップ。

それにしても、すでにこの調子で、直接的もしくは黙示的に、
拒絶対応をされた店は4店を数えます。
喫茶店社会における許されない永遠の大罪はなにか?
長居である!
と言うわけです。

良いでしょう。
こちらはこちらで、客の立場で考えることにしましょう。
私を客と認めない態度を示したら、
その瞬間、私はその店を永遠に追放してしまいましょう。
いくらでも、休憩場所はあるのです。
その内、さまざまな事情の変化が起こるでしょう。
現在のように、コロナ社会なのに、
おびただしい人間が観光都市奈良に押し掛けてくる時代が
いつまでも続くとは思えません。
かつてのように、海外観光客零時代が到来する可能性だってあります。
毎日毎日閑古鳥になれば、経営状態も劣化し、
私のような常連客を大事にしたいと考える時代が来るでしょう。
そんな時代になっても、
元気いっぱい歩きまわる体力を維持していて、
来店を懇願される、
そんな未来も面白いでしょう。
頑張りましょう。

さて、マクロスイター50㎜F1.8の写りはいかに?
マクロスイターのような個性的なクラシックレンズでは、
現代デジタルレンズが実現している、
正確で颯爽たる色調、画質の描写など、絶対に無理です。
そして、私の感性自体、完全に時代から取り残されています。
デジタルカメラの正確で颯爽たる色調、画質の描写を
まるっきり受け付けなくなってしまっていることに気づかされる始末。
要するに、まさしく時代に取り残されて仕舞ったわけです。

じゃ、我がシステムを現代デジタルカメラ仕様に切り替えて、
現代の写真のレベルに這い上りたいか?
残念ながら、答は「完全に、ノウ!」
そのために、
私のレンズ庫の百数十本の古代レンズたちと訣別する?
断固として、答は「完全に、ノウ!ノウ!ノウ!」

私は10数年ほど前から、
アマチュア写真家である、という自覚を完全に捨て去りました。
私は「写真好き、レンズ好きの、ただのレンズ愛好家」なのだ!
デジタル化への抵抗もあったかも知れません。
私のブログは、かなり前から、
自分以外の誰かが観ることを前提として作成する、
というスタンスを完全に放棄しました。
ほぼ完全にアクセス零だから、
そんな自覚を今さら云々するまでもなく当然ですが、
第一、私は、それよりも何十年も前から、
自分一人のために写真を撮って、
第三者が私の写真を見ることを期待して「写真作品」を製作する、
という気持ちも意志も態度も捨ててきたのですから、
それが人生の総決算としてのスタンスなのでしょう。

随分前に友人の一人から尋ねられました、
「写真に魅せられて、折角長い間撮りだめて来たのですから、
これまで撮った写真作品を人に見てもらうのも止める、
なんて、いかにも惜しいじゃありませんか?」
でも、実は私は知っているのです。
確かに半世紀、倦まずたゆまず、写真を撮り続けて来て、
しっかり自覚できています。
自分がプロ、アマを問わず、
いわゆる写真家として成功する下地を一切備えていない!
そして、肝心なことに、見せても、ろくな結果にならなかった!
私の写真を前にすると、ほぼ全員の目が臨時休業するような感じ。

実にシンプルで単純な実例が一つ。
あなたが男性として、稀なる幸運に恵まれ、
女神とも思えるほどに麗しい美女を伴侶にすることが出来たら、
その麗しき妻を誰彼なく宣伝し、他人と共有したい、
なんて、絶対に思わないでしょう。
ロボグラフィがこの妻!

私は、写真を初めてから終始一貫して、
写真界において写真家としての立ち位置を確保したいという
気持ちはついに皆無でした。
職業生活、私生活上のトラブル、ストレスを撥ね返すための
プロテクター、鎧、消化器として、自分の写真を使ってきたのです。

多くの写真家は、私とは逆に、
自分の作品に対する高評価、写真家としての評判、名声を、
おのれの心を強くするためのテコ、踏み台に使っているでしょう。
そして、それが写真趣味の意味、醍醐味、強みなのです。

でも、有り体に言って、アマチュア写真家が、
自分の写真を「写真作品」としての価値を世に問う、
そんな境地に到達するのは極めて困難です。

もしあなたが才能のないアマチュア写真家なら、
いつか正真正銘の写真家に進化するなんて、
絶対に、と言って良いくらい、不可能です。
才能とセンス、どちらをとっても、
正真正銘の生まれつきの才能を必要とします
私を含めてほとんど98%の写真愛好家は、
まさしく典型的な「下手の横好き」でしかなく、
アマチュア写真家として活動しようとしても、
「たまの幸運だのみの作品作り」の手助け、脚立の役割を、
カメラ、レンズに託す、という程度、レベルでしかありません。

私はそれを完全に自覚しています。
これが「汝自身を知れ」の一つのあり方なんだ、
私はそう確信しています。
お気に入りの写真が撮れても、
神様とそれにレンズに感謝するだけ。
今回はその感謝の念がひとしお大きい。
やっぱりマクロスイターだ!!!





2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21531959.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21531219.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21530507.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21521553.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21515776.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21513990.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21504418.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21503105.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21490493.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21485159.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21481395.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21480627.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21475807.jpg
2362 (2023年4月28日マクロスイター50㎜F1.8の奈良町は優雅に輝いて)やっぱりなあ...!!_c0168172_21472572.jpg






# by hologon158 | 2023-10-18 21:56 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!



平成35年4月28日(金)、晴れ、温かい。

私は、小学校3年のころから、歴史が大好きでした。
父が、中村幸也先生の「日本の歴史」十数巻を買ってくれたのです。
さすがに、我が父。
彼の選択は、父の好みだったのでしょうけど、
私の好みにピタリとかなっていたようです。
まさしく耽溺に近い状態になって、繰り返し読みました。
後から判ったのですが、なんと皇国史観に基づく日本史でした。
ですから、この日本史はイザナギ、イザナミの国作りから始まる!
その後も終始歴史は天皇家を中心として回り回って現代に至ります。
と言うわけで、私はどうはら、この全集で歴史観を育ててもらった!
でも、私は、皇国史観、いわば右翼の人間には成りませんでした。
私は、生まれついて、骨の髄から、中道、無神論者のようです。
でも、だからかも知れませんが、
私はそんな人間にふさわしい仕事を選びました。
そして、本を読み続けてきました。
私に特定宗教が生み出す偏見がまるでないからでしょうか?
私は神話も宗教書も大好き。
こんな私は、ユダヤに生まれて、ユダヤ教とタルムードで育っても、
あるいは、ローマあたりで生まれて、キリスト教で育っても、
私は揺籃のごとき民族宗教に完全に染まることはなかったかも知れません。
完全な証拠無しに、「信じよ、さらば、救われん」と、
なにごとかを盲信するように迫る宗教には、
性格的にどうしようもなく反発、疑問を感じるからです。
「そんな風にして信じて、
泥沼地獄に陥った人が一杯いるじゃないか!」
「信じている振りをして、でも、心底から神を怖れぬ輩で、
生涯破戒の限りを尽くした人が一杯いるじゃないか!」
「それに、各宗教がそれぞれに地獄を用意している。
だから、キリスト教徒の天国では、回教徒は地獄落ちでしょう。
でも、回教徒の天国では、キリスト教徒が地獄落ちに?」
そう言いたいところです。

私がなぜ皇国史観に染まらなかったか?
理由は簡単。
もし、天皇家が神の化身としてこの地に送られたのだとしたら、
どうして太平洋戦争に完敗してしまったのでしょうか?
なんで神は、米軍に広島、長崎への原爆投下を許したのでしょうか?
神のご加護はどこにあったのでしょうか?
アマテラスはどこに行ってしまわれたのでしょうか?

もちろん、他の宗教で育っても、同じ疑問が生まれたでしょう。
イエス・キリストが父なる神が地上に送った神の化身だったとすれば、
キリスト教徒が「汝、殺すなかれ」を初めとする十戒を
全然守らないどころか、地上最大の殺戮者であるのはなぜ?
その度に懺悔すれば、許される?
「十戒」は永遠の戒律ではなかったのですか?
永遠の戒律は、破れば、それで一巻の終わりである筈。
「懺悔」なんて便法を誰が考え出したのでしょうか?
明らかです。
破戒者が考え出したのです。
十戒をどんなに破っても、週末に教会で懺悔すれば、
メデタシメデタシ、なんの罪にも問われない?
そんなアホな........
ローマカトリック教会の法王に聖人はほとんど居ない、
そう言われています。
さもありなん、です。

日本の刑法、刑事裁判所の方がはるかに優れています。
どんなに謝っても、悔いの気持ちを披露しても、
それだけでは許されません。
しっかりと国が定めて法に従って、悔い改め、更生のための年月、
刑務所で懺悔しなければ赦されないのですから。
ローマ教皇たちも、ヨーロッパの王たちも、
明治時代以降の日本で罪を犯したら、しっかり処罰されます。
とは言え、先般殺害された元首相も、特殊団体におんぶに抱っこして、
選挙に勝利し、政権を維持し続け、猛烈な暴利を貪ったのですから、
しっかりと処罰されるべきだったのです。
そんな風に処罰されるべき同類の政治家達が
未だに日本を牛耳っています。
上記の特殊団体も活動を続けています。

私は、新日本国憲法が三権分立を規定したとき、
すべての犯罪を摘発する警察検察機構を行政ではなく、
独自の刑事処理機構として確立して、4権分立とすべきだった、
そう考えています。
警察検察機構が行政の一機関とされたために、
政治家達が警察検察機構を権力の翼賛機関に仕上げる余地を
残してしまいました。
国家の支配者たちが、たとえば、田中角栄のような犯罪者が、
警察検察機構によって処断されたのは、
ターゲットの反対勢力が権力を握ったときだけである、
というのは、極めて恣意的、つまり、運任せでしかないからです。

もっとも強力な悪の糾弾者が居るとすれば、それが神でしょう。
でも、現実の神さまたち、公正無私には動いていない!
キリスト教の神が宇宙を創造されたのであれば、
どうして、キリスト教を信じない、他の宗教の信者、無神論者が、
地球に溢れているのはなぜ?
強烈な悪人が栄えたまま、あの世に食い逃げしてしまう!
彼らがあの世で地獄にきっちり送られる保証は?
零です!
このような疑問はすべての宗教に当てはまります。

なんで、いつまで経っても、
地球全土、宇宙全部が神の庇護の下に統一されないのでしょうか?
神様、なんでわざわざ自分を全く知らない星、民族をどっさり作って、
キリスト教徒や善人たちが苦しめられているのに、
涼しい顔で傍観しているの?
なんで、超々広大な宇宙の隅の隅の隅のちっぽけな惑星にだけ、
あるとき、ほんの一瞬だけ、救いの御子を差し遣われて、
後は知らんぷり、というのはいかがなものでしょうかねえ?

例えば、私は熱帯魚を飼っていたことがあります。
グッピー、ディスカスが主体でした。
餌を与え、水を浄化し、藻を育てました。
見飽きませんでした。
正しく育て、過剰な人口(魚口?)に成らないように、
水槽の水がいつまでもクリーンであるように、心を配りました。
グッピー、ディスカスたちは、私の足音を見分けました。
他の家族が近づいても、平然としているのに、
私の足音はしっかり聞き分けて、餌を貰おうと、
私の方に泳ぎ上がってくるのです。
私が神でした。
そして、誠実に神の仕事をこなしたと確信しています。

放し飼いの文鳥(クリちゃん)もそうでした。
弟とは仲が悪く、たえず喧嘩していました。
母親の話では、
彼女は、私が我が家の側の曲がり角を曲がってくるときだけ、
足音を聞き分けて、
バタバタと玄関に向かって飛んでくるのだそうです。
道理で、私が玄関ガラス戸を開けると、
玄関の間には、クリちゃんが必ず居ました。
勿論、私が餌を用意してくれるから、と言うことでしょう。
でも、私は誠実にその仕事をこなしました。
愛玩動物をどんどん手に入れるけど、しっかりご飯を用意しない、
そんな人が沢山居ます。

文鳥クリちゃん、熱帯魚と平行して、亀も飼っていました。
庭の隅、じめじめした地面を掘って、
ミミズを探し出して、食事を上げて居ました。
亀さんが喉を鳴らしながらご馳走を呑み込んでいく姿は、
うっとり目をつぶるあたり、
まさしくうどん屋の常連さんと同じ姿でした。

小学生時代、私は犬を飼いました。
もちろん我が家で飼ったのですが、世話は全部私が行い、
犬は私一人に懐きました。
縁側で、私の膝で昼寝をしました。
私は抱いて、寝ている間じっとしていました。
私は、少年時代、余り短気ではなかったようです。
グッピー、ディスカス、文鳥、亀、犬たちにとって、
私は神でした。
私も誠心誠意、世話をしました。
彼らのためにはなんでもするつもりでした。

そこで、若い頃から考えたものでした。
なんで、大和民族の神は、日本人に世界戦争に参加させ、
負けさせたんだろう?
どの時代でも、どの国でも、支配者は平気で国民を死地に追いやり、
支配者自身は大半、畳の上、布団の中で、
穏やかに静かに平和に、冥土に旅立ちました。
でも、旅立ちは穏やかだったとしても、
冥土では地獄への一本道、閻魔様に即座に宣告されるでしょう、
「お前は更生の見込み皆無だ!
永遠に、火炎地獄だあ!」
未だに阿鼻叫喚の地獄にのたうち回っているだろう。
私は、そう確信しています。
「ざまあ見ろだ!」
そうでないと、戦場で生きながら地獄を見た兵士たちが可哀想です。

でも、いつも思うことは?
なぜ神は、この地上において、
悪党どもにしっかりと悪の報いを受けさせないのだろう?
何で、広島、長崎に原爆を落とすのを許されたんだろう?
もし、原爆投下がキリスト教の神の庇護の下に行われたのだとしたら、
イエスはアマテラスより強い神なのだろうか?
そして、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」と命じたのは、
この神の子ではなかったのか?
これじゃ、まるで、正反対!
「右の頬を打たれたら、相手の両方のひっぱたけ! 
いや、これじゃ不十分だ! 
殺せ、殺せ、殺して殺しまくれ!」じゃありませんか?

それとも、現代では、
もうイエスもアラーもアマテラスもオーディンも、
その他世界中の宗教の神様たちも、全然姿を見せないじゃないか?
世界中でコロナが自分の信徒達を万々無駄死にさせていると言うのに、
せめて自分の信仰者達ぐらいは救ったらどうなの?
何で黙ったまま、なにもしようとしないの?
そして、何よりも先ず、神が存在するとしたら、
その神は世界の創造者なのだから、
他の宗教の自称神さまたちが詐称、詐欺行為を行っているのに、
なんで放っておくの?

こんなことを色々考えるに付けて、
私は、自然な道筋として、無神論者になってしまいました。
それでも、神のこと、神々のこと、神話や宗教のことを考えること、
種々の古典を読んで、心をなぐされられ、激励されることは、
止められません。
完全無神論者ではなく、不可知論者に近いかも知れません。
こんな人間は私だけではありません。
世界中に私の同類が居るでしょう。

昔は、世界中の情報などアクセスできなかったので、
多くの神を比較対照する可能性はほとんどなく、
ローカルな地域で、ローカルな神を絶対神として信仰することは、
比較的当たり前だったでしょう。
いわば金城鉄壁の砦とその縄張り、つまり、
世界の片隅ごとに、宗教は安住していたわけです。
地球が一体となった今は、それはもう無理です。
でも、それでも、日本は別として、他の諸国では、
多くの信仰者が信仰を失っていないのです。
誰もが拠り所を求めていて、
他に、これに変わる確信を求めることができないからでしょう。
私はそんな信仰者に敬意を抱きますが、
真似をしたいとは思いません。
上記のような疑問が私を遮り続けているからです。

もっとも、無神論者の私でさえも、生命体の創造が、
単なる物質の組成が、なんらかの不可知な理由によって、
生命体を生み出すに至ったと主張するのは、
到底無理だと考えています。
ダーウィンの自然淘汰説は、
生命も自然淘汰によって生まれたとするわけですが、
私は、それはタワゴトに過ぎない、と確信しています。
自然淘汰に任せていたら、
歳末一億円籤の当選を待つようなものです。
地球はいまでも単細胞動物止まりだったでしょう。

例えば、地球上の生命は、
4種の塩酸基の3種ずつのセットで並んだ列が
細胞の基本的な設計図と成ります。
生物たちを構成する基本組成、設計図は、
全細胞の一つ一つの細胞のそれぞれの核の中に用意されています。
そんな設計図となる二重螺旋の遺伝子情報が
漏れなく収まって居るわけです。
専門知識を欠いているので、詳しい説明は出来ませんが、
いざ、その細胞を増殖する段になると、この二重螺旋がほどけて、
それぞれの螺旋の対の塩酸基を見つけて、完全な細胞となる、
というプロセスを経て、それぞれ完全な細胞が二個に成り、
さらに、このプロセスを繰り返し、体の構造を創り上げていって、
一個の生命体が生まれます。
驚くべきことは、人間(全生物も)のすべての細胞の核の中に、
このような増殖のための設計図となる二重螺旋の設計図が
備わっていて、
細胞の一つ一つが、自分の位置をまがうことなく把握していて、
今、ここでは何をすべきか、
知っていて、その使命に応じた細胞分裂を行って、
自分が構成すべき細胞、器官を作り出します。

昔、遺伝学の解説書を読んだところでは、
私たちの指の先には、数百万もの細胞があります。
その一つ一つの核の中にDNA二重螺旋が球体を成して、
分裂、創造を待っているのです。
実験で確かめられたところでは、
適切な液の中でこの核の二重螺旋がほどけて、
その一本ごとに複製プロセスを展開します。
或いは、バラバラだった組成分子が、
まるでどこかに設計図があるかのように
バンバンとニュー細胞を創造し、
生まれるべき生命たちの構造を創り上げていきます。
こんな風にしてどんどん細胞を増やし、成長し、子孫を産むのです。

このような精密かつ複雑極まる生産プロセス、
そのメカニズムは精妙極まりなく、
これが自然進化したとは、とうてい信じることが出来ません。
とくに、ダーウィンの自然淘汰説では絶対に無理です。
何百億年偶然を繰り返しても、生命の誕生など起こりえないでしょう。
偶然が完璧な遺伝子構造を生み出すなんて.....???
宇宙の歴史の中で、地球上ではじめて生命が誕生したとは、
とても思えません。
つまり、単なる物質から、自意識を備えた生命体が出現したこと、
これは、超知的生命体の設計に基づいてこの世に出現した、
そう考えないと、納得出来ませんね。
作為無しに、単なる偶然の積み重ねが、
このような精密極まりない生命創造システムを生み出したとは思えない。

その証明は簡単です。
ミケランジェロの「最後の審判」を現場で振り仰いで見た誰かが、
「これは人間が描いたものではありません。
自然淘汰によって、このような姿になってしまった、
ただそれだけのことです。」
そんなことを言っても、誰も信じないでしょう。
生命創造システム、遺伝子構造は、
この絵よりも遙かに遙かに精妙複雑の神秘なのです。
たとえば、人間が発明し、製造しようとしても、
絶対に不可能な仕組みです。
じゃ、誰が発明したの?
答はありません。
だから、生命システムが、長大な時間をかけて、
自然の中で生まれてきたものとはさらに考えられません。
どこかで最初に、親の遺伝子を引き継いだ子が生まれ出る?
そんな奇跡が起こる筈がありません。

もっとも、私の説にも、看過しがたい難問があります。
なにものかが発明し、創造したものと考えても、
それならば、その生命体はどうやって生まれたのだ、
という疑問が頭をもたげてきます。
そんな創造者を生み出したのは誰なのか、
と、問わざるを得ないからです。
そんな風にして永久に無限遡行を生み出しかねません。
アインシュタインのような偉大な先人もまた、
この疑問に直面して、唯一の解決策にたどり着いたのです。

神が世界を創造した!

そして、この創造者たる神を創造したものは誰か、
神が、どんな目的で世界を創造したか?
これらの問いには、
さしものアインシュタイン先生にも答はありません。
この宇宙の創造者に関する問いとは別次元、無関係だからであり、
別次元に関わるデータなど、この宇宙には見つからず、だから、
別次元がどんなものであるかは想像しようもないのです。
蟻の巣の女王に人間世界のことなど丸きり判らないのと同様です。
人間が存在することすら判らない。

面白いことに、ある程度の限度内で、
この階層を上下することも出来そうです。
米国の若い夫婦が犬を飼っていました。
男が兵役につき、二年でしょうか、海外で軍務に就き、
これを無事終えて、飛行機で帰国します。
女と犬が飛行場で、夫の通関を待っています。
やがて夫が開いたドアから姿を現しました。
その瞬間、女と犬とは同時にワッと色めき立ちます。
女も犬も男のことを忘れず、
一目見て、彼だと知ったのです。
二人とも、彼の不在を悲しみ、帰還を待ち望んでいたのです。

私の体験では、犬、猫、文鳥ははっきりと人間の個体差を区別でき、
とくに餌をくれる人間を足音で聞き分けました。
動物園のタコは飼育員を識別し、好き嫌いを抱き、
誰が近づいてくるのか、足音、姿で区別するのだそうです。
嫌いな飼育員が近づくと、足音だけで聞き分けて、
離れたところから水鉄砲で攻撃するのです。
私もそのビデオを観ました。
知覚だけではなく、感性、記憶力も備えていることは明らか。

これで判ることは、人間の感性、知性の相当部分には、
動物たちと共有する資質、性質が多く含まれているということです。
地球の生命世界は、限りない偏差があるとは言え、
すべて同じ生命界で進化してきた同胞で構成されているのでしょう。
まさしく「宇宙船地球号」なのでしょう。
そして、その「地球号」の中で、それぞれの役割を担いながら、
生き、愛し、死んで行くのです。

私には一つの想像が浮かんできます。
世界は一つに結ばれる時代になりました。
人口は最高に達しました。
これ以上、膨張することはできない限度を超えつつあるらしい。
食料生産は追い付きません。
コロナで明らかなように、パンデミックまでも、
世界全土に蔓延するまで、止まるところを知りません。
征服者の野望は必然的に
世界全土に対する支配圏を確立することに帰着します。
パンデミックも征服も限度を持たないのです。
だから、地球全体を餌食にすることになります。
その二つの地球規模の災厄が同時進行しつつある!
これが現代の世界なのです。
しかも、災厄の極はこの二つがワンセットとなることです。
パンデミックが戦争の道具にされているらしい。

1999年、中共軍の参謀二人が教科書的な戦術書を書きました。
「超限戦」
現代は、兵器ばかりではなく、
あらゆる手段を駆使して戦われる時代になったとして、
彼らがその兵器の筆頭に挙げたのが、
「パンデミック」でした!
どうやら、まさに、今、
そのパンデミックを筆頭の武器とする超限戦が、
世界で、世界の諸国が知らぬ間に、戦われているのではないか?
という疑問です。
私の回答は、ただ一つです。
「イエス! 
まさに今、超限戦が仕掛けられて居る!
でも、世界のほとんどの国はこれに気づいていない。
むしろアメリカ合衆国政府、コングロマリットこれに気づいている。
それどころか、もしかすると、中国に加担して、参戦している!」

中共の超限戦のもう一つの戦法は、金と女を駆使して、
世界の各政権の内奥部からの腐敗、裏切り、内応システムを作り出す。
中国は膨大な資金を投入して、
世界中の政府、政党、政財界の要人に内応者をどんどん育てているのです。
米国現政権の始まりの頃、
現大統領はこのような「美人局ツツモタセ」の暴露作業を命じたという
ニュースに接したことがあります。
今、その政策の実行はどうなっているのでしょう?

しかも、事態は錯綜しています。
国民の腐敗どころではありません。
一時、現大統領、ご自分のお尻に火が付いたこともありました。
実は、火は付いたままです。
彼と彼の息子たちが中共軍が資本を出資している中国会社から、
莫大な顧問料を貰っていることが明らかになりました。
そして、この息子も中国の美人局の餌食となりました。
その写真はFBIの手に渡りました。
でも、その火もそっと消されてしまったようです。
その後、捜査が進展して関係者が起訴されたなんてニュースは、
まったく見つかりませんね。
ということは何を意味するのか?
中共もFBIも共通の利益を別途追求しているのか?
それとも、実はFBIの一部に中国の魔手が伸びているのか?

さらに、日本の政界も火の車のようです。
先般殺害された元首相を初めとする自民党のお歴々は、
岸信介、佐藤栄作以来、韓国の似非宗教団体の金まみれになり、
選挙資金、選挙員をおんぶに抱っこ状態であったことが暴露されました。
でも、その事態が解消された事実も、
その似非宗教団体の日本での活動が停止された事実も、
完全に報道から消えて仕舞っています。
そうはなっていない!
現首相もその恩恵に浴していたことが明らかになっています。
彼の選挙支援団体のトップが上記の団体の幹部だったのです。
でも、これらの事実に関する釈明、改善の報道もありません。
何のことはない、NHK以下報道機関もまた汚染済みの疑いがあります。
みんなグル、と、言うわけです。

私の若い頃、統一教会活動への批判、非難が高まり、
かなり警察検察の手入れがなされていました。
私は、このときの警察検察の処理によって、
統一教会は日本での活動を停止させられてしまった、
そう信じていました。
とんでもない。
逆だったのです。
自民政権によって、警察検察の手入れ自体が秘かに臨終させられ、
報道機関も関連報道を一切停止してしまって、
まさしく「臭いものに蓋」がされてしまったのです!
自民政権の庇護下、統一教会は深く静かに潜航しつつ、
未だに、自民党の懐刀として縦横無尽の活躍をしていたのです。
今回、前首相銃撃事件によって、彼を筆頭として、
自民党政治家たちの庇護の下に、統一教会は依然として、
日本国内における収奪システムを活発に働かせていること
が明るみに出て仕舞いました。
こうなると、自民党は年貢の納め時だろう!
まともな国ならそうなります。
でも、日本は違います。
事態はいかなる改善も成されないまま、
自民党は依然として日本に君臨しているわけです。
この事態に飽き足らない人たちが次ぎに頼ろうとしているのが、
なんと大阪から出発している、無頼政党なのか?
ゾッとしますね。
日本人がマスコミから吹き込まれた選択肢の埒内で考えようとせず、
自分の頭で考えるようにならないと、
日本はますます泥沼に陥るばかりでしょう。

さて、こんな問題を考えると、常に行き着くところは、絶望、
これしかありません。
まさしく、どうにもならない!
勝手にしやがれ!

そこで、私は写真に心を向けます。

ソニーα7s
マクロスイター50㎜F1.8

レンズとしての魅力では、50㎜レンズ中、白眉、
そう言ってもよいかも知れません。
ふっくらとした立体感に溢れ、温度感のある描写力は魅力的です。
宮崎さんのゾンネタール50㎜F1.1Softと双璧じゃないかな、
私はそう考えています。

私は、メインボディを銀塩カメラからデジタルカメラに変えたとき、
2つの選択肢の間に、つまり、ある種の剣が峰に立たされました。
写真家の99.9%はデジタルカメラに移行しつつある時期でした。
私も移行しました。
ただし、レンズは古典的な銀塩レンズを使い続けたい。
かくして、古典レンズ群をそのまま使い続けられる、
ソニーαシリーズに移行した訳です。
銀塩マウントのレンズをセットできて、
しかも、等倍のファインダーなので、銀塩カメラと同等に、
レンズの画角一杯に撮ることができる稀有のレンズボディ!

でも、私の仲間達は、レンズもデジタルレンズに移行しました。
等倍で撮れる上、超々高画質で、露出もびしりと決まる。
デジタルレンズで高解像度で撮ると、全全倍の大きさで撮っても、
畳一杯、いや、それ以上らしいのですが、
まったく粒子の見えない超々高画質で、
光彩陸離たる写真表現を楽しめるようになったからです。
皆さん、「わが時代来たれり!」という感じで、
絶好調の写真人生を楽しんでいます。

一方、私はどうか?
そう正面切って問いかけてみますと、
私は、完全に孤立してしまった感があります。
先ず第一に、私は「写真作品の製作」という気持ちを
完全に無くしてしまったことにくわえて、
もう一つ、
デジタルレンズの超々高画質、つまり、ツルツル表現には
どうしても馴染めないのです。

写真家の皆さん、確かにデジタル時代に適応して、
全員、数ランク上の写真家に飛翔してしまいました。
でも、かつて銀塩フィルムの時代に感じていた、
独自の作風、写真からうかがえる人間性がそれぞれに素敵でした。
そんな写真から浮かび上がる人柄に感得していたのに、
今や、写真家の作品群は、天馬空を行くがごとき絶好調感溢れる、
目も見張るような超高画質!
たとえば、イタリアオペラの名歌手達は、
フォルテッシモの絶唱にたしかに魅力はありますが、
ある意味で、区別が付きにくい。
フォルテッシモの絶唱だけを聞かされると、どれが誰だか、
聞き分けるのは難しくなります。
ところが、ささやくようなピアニッシモとなると、
名歌手達はそれぞれに比類の無い魅力に満ちた声を聴かせてくれます。
デジタル写真はこのフォルテッシモの魅力に尽き、
銀塩写真はピアニッシモに擬せられる微妙な味わいがあった、
そんな感じがするのです。
私はどちらに魅力を感じるか?
もちろんピアニッシモです。

かつて一世を風靡していた三大テナーは、
幾度も野外講演を行いました。
マイクを使い、アンプで増幅して、声を揃えていました。
その三倍に増幅された絶唱に膨大な観衆が熱狂しました。
でも、アンプで均質に増幅された疑似サウンドが作りした幻想でした。
現代のデジタル一眼レフも同様の効果を発揮しています。
各社は、他社に卓越した魅力を醸し出すために、
カメラ自体に仕組まれた編集プログラムで美化された画像を、
ユーザーにプレゼントしています。

昔から、アートは人を選ぶ、と、言われて来ました。
自分が理解できる限度でしか、評価し、鑑賞することが出来ない。
自分を超えたアートは、理解を超えて仕舞うから、
正面切って理解することなどできません!
デジタルカメラは、撮影時に撮影者に提供する画像に、
秘かに各社が創り上げたデジタルアート処理を施して居ます。
この絢爛たるデジタル処理が撮影者と私との間に割って入る、
そんな感じがします。
銀塩時代には写真には撮影者の心、人柄、人生が滲み出ていたのに、
デジタル時代に入ると、デジタル処理のフィルターが働いて、
そのデジタルカーテンの向こうに撮影者を隠してしまうようで、
撮影者の心を感じ取り、読み取ることが出来ない、
そんな風に感じるのです。

こんな風に感じているのは、私だけなのかも知れません。
今では、写真雑誌も最新の写真関係書も読まないので、
上記の私の想いは、私が単に落ちこぼれてしまった状態を、
自分なりに言い訳しようとしているだけかも知れません。
でも、まあ、いずれにしても、
デジタルアート、デジタル写真に魅力を感じることが出来ない、
という事実は動かせません。
私は人間の技、人間の業に魅力を見つけたいのです。
デジタル処理に振り回されたくはありません。

これが写真界の中での私の位置。
つまり、写真界の境域の外に遠く離れて、
独りぼっちと言うわけです。
でも、私は人の写真を見るのが好きです。
よく写真美術館を訪れます。
原則として、展示スペースの前半は入江泰吉名作集。
後半がスペシャル展です。
私は入江作品を楽しみます。
かつての銀塩プリント作品の時代とはかなり変貌を遂げました。
いかにもプリント風です。
でも、どこかツルリとして、大和路を知る私としては、
現場再現力がかなり乏しいことに嘆かざるを得ません。

一階奥の資料室で写真集を物色します。
かなり沢山の写真家達の作品集が並んで居ます。
千冊はありそうです。
でも、幾度も繰り返して見入ってしまうのは、
アンドレ・ケルテスやイモージン・カミンガムのような、
前世紀の古い銀塩モノクロームの写真家たち。
今回書架から持ち出して、テーブルに広げているのは、

IMOGEN CUNNINGHAM
PH0T0GRAPHS

一枚目に心を奪われました。

Marsh at Dawn,1901

冬枯れの沼地なのでしょか?
葉の落ちた樹林の向こうに水面が見えます。
空気感一杯で、静寂の気があたりを支配する気配。
ボケボケのモノクローム写真です。
ピッカピカ、ツルツル、光彩陸離の現代デジタルアートとは、
天と地ほども劣等のボケ写真なのでしょう。
現代の写真家はせせら笑うでしょう、
何だ、これは、昔はこんなのを撮って、
「写真家でござい」と、いきってたのかい?
でも、私は、ピッカピカ、ツルツル、光彩陸離の現代デジタルアートから
そっと身を引き、
この作品のような、写真史原初の感受性に感じ入ってしまうのです。

そこには、冬の朝まだき、ただ一人で荒れ野を彷徨う写真家の、
まさしく自画像がありました。
写真の黎明期から久しく、写真は「孤独な自己との対話」でした。
こんな見捨てられた片隅の自然に、
写真家は同胞の、或いは、自己の、静かに呟く姿を見たのです。

現代のデジタル写真は、世界に向けられたアピールであり、
ときには、叫びであり、破れかぶれの自己主張。
満たされない渇望、出口のない絶望に押しつぶされようとしている
おのれの苦しみの表現であることもありそうです。
でも、そのような苦しみからの上位次元への上昇的脱出、
そんな可能性もありそうです。
希望と精神エネルギーを失わずに、人生を楽しむことにしましょう。

さて、写真。

ソニーα7
プラナー50㎜F2
ツァイスの化け物一眼レフ、コンタレックスの標準レンズです。
レンズ描写の傾向、好みは、民族によって違うようです。
そんな絶好の例を提供してくれたのはツァイスでした。
ツァイスはコンタレックスというドイツ民族にぴったりの、
威風堂々たる一眼レフを生み出していました。
描写性も断然豪快で強烈。
コンタレックスのレンズをお使いになったら、それが解るでしょう。

そのツァイスが日本のヤシカと共同開発したのが、
ヤシカコンタックスのカメラ、レンズシステムでした。
とくにアマチュア写真家に人気を博しました。
私もこちらのレンズ群も大いに楽しみました。
かくして、自然にツァイスが生んだ一眼レフの2システムを
比較対照する機会を得たわけです。

丸みを帯びたリアルだけど、自然な描写力は共通していました。
でも、コンタレックスのレンズはとんでもない位に、
高コントラストで、超立体感に溢れていたのです。
いわば、マッチョなヘラクレスと優美なアポロンほどに違いました。
たとえば、85㎜。
ヤシカコンタックスのプラナー85㎜F1.4は、
日本の肖像写真家のツールとなりました。
ところが、たとえば、美しい肌の女性を撮り比べて見ますと、
愕然とするほどに違っていたのです。
レックスの85㎜は美女を撮っても、マッチョに写る!
そんな風に感じる位に、すごい描写でした。
あんまりすごいので、レックスの85㎜や180㎜は使えないほど。
ツァイスがRexを名前の末尾に付けたのは適切でした。
Rexとは「王」を意味します。
というわけで、どんな意味でも王ではない私は、
結局、ヤシカコンタックス系列に落ち着きました。
レックスのボディもレンズも売却。
ただし、35㎜と50㎜だけは残して、
ソニーα用のマウントアダプターを使って、
愛用しています。
つまり、美女も子供も撮らず、
撮るのは、ただの路傍のロボグラフィなら、
凄みのあるレックスレンズでも楽しめます。



2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22311836.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22305988.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22302425.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22300612.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22295353.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22294503.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22292811.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22291324.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22283770.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22282013.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22280680.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22275070.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22273200.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22271196.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22265253.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22263706.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22261946.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22252450.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22245057.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22232114.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22221040.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22212665.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22211550.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22200994.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22194488.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22184603.jpg
2361 Rexとは王 (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)地味だけど、豪快に!_c0168172_22174620.jpg




# by hologon158 | 2023-10-13 22:32 | ホロゴン外傳 | Comments(0)

2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!


2023年4月20日(木)、晴れ。
まだ4月なのに、初夏の日差しと温かさ。
近頃、孫当番が重なって、ロボグラフィ散歩の機会が若干減少。
本日は、妻も神戸に出掛け、他用もないので、出掛けました。

装備は、

ソニーα7s
プラナー50㎜F2

ツァイスの唯一の超弩級一眼レフ、コンタレックスの標準レンズ。
感度2500、f8、パンフォーカス設定にして、
常焦点レンズとして、伸ばした手の先で撮影しつつ、
我が家から徒歩、肘塚経由で、コメダ珈琲店に向かいました。
依然として、全行程、歩行者数は激減状態。
まるで無人の境を行くがごとき、とはこのことです。

新種のコロナパンデミックが再来する可能性が取り沙汰されています。
事実、かなり零近くに向かっての減少傾向が続き、
政府は、4月来、
コロナの危険性をインフルエンザなみに評価替えをして、
産業活動、国民生活の正常化を推進する姿勢を強めて居ました。
ところが、一部専門家は、
これから、改めて次のピークが到来すると警鐘を鳴らし、
政府も、近頃、ワクチン接種を大々的に再開して、
5度目、6度目の接種によって、
これを乗り越える姿勢も示し始めました。
要するに、支離滅裂も良いところです。
とくに、この数ヶ月の感染状況により、
旧型コロナを対象として開発されたワクチンは、
いくら重複して接種しても、最新型のコロナの罹患、治療には
役立たないことが証明されました。

政府は極めて早期に、
コロナ接種、非接種と感染との相関性に関わる統計を
ワクチン接種の有効性証明のために使っていました。
70歳以上のコロナ感染比率は、
非接種者が方が接種者より圧倒的に高い、と、
鬼の首を取ったかのように喧伝していました。
ところが、専門家筋から、この統計に疑問が提起され、
数え方がおかしいのではないかという指摘が相次ぎました。
結局、政府も、非接種者数に、
「ワクチン接種有無欄未回答者」もぶち込んでいたことを白状しました。
官僚の仕業です。
正確な統計発表では、政府の方針に有利な方向に使えないと見て、
そっと「ワクチン接種有無欄未回答者」は、
きっとコロナに感染しているんだと、勝手に想定したわけです。
みなさん、政府が統計を使う目的を忘れてはいけません。
統計が政府方針に有利な資料となる場合にのみ、
統計は有効な資料となる。
これでは、統計の本来の目的を果たすことはできないことは明らか。
でも、上記の指摘を受けて、知らぬ存ぜぬはできません。
裏工作が暴露されたら、ますます窮地に追い込まれてしまいます。
そこで、統計を正確に3分類に修正してみますと、
70歳以上の高年齢者のコロナ感染比率は、
接種済みの方が多いことが判明してしまいました。

こんなとき、官僚はどうするか?
お分かりですね。
統計は政策の正当性強化の手段なのだから、
強化に役立たない統計は使わない!
ということで、この統計表は姿を消して仕舞ったまま。
そのこと自体が政府によるパンデミック対策の敗北を
立派に証明していることに、彼らは全然気づいていない。

統計表をご覧になれば、お分かりになるでしょう。
一定時期以降、2回目、3回目のワクチン接種者は大幅に減少して、
その数値が終始変わらない!
要するに、政府があんなにワクチン接種反復の効果を喧伝してきたのに、
国民は「笛吹けど、踊らず」で、上記の統計値は不動のままなのです。
つまり、国民の大多数は、
旧型コロナ対応のワクチン接種をどんなに重ねても、感染を防ぎ、
あるいは、治療効果を促進する効果などないことを知っている!
だから、ワクチン接種など受けない!
開発元は、重複接種は、各回ごとに一定期限内に接種を受けることで、
重複効果を期待できるとして推奨してきたのです。
接種済み国民の大多数はその期限を徒過して仕舞っています。
この状態で、今頃になって、完全なタイミングを失して居るのに、
そもそも効果がない、もしくは軽い効果しかない旧型ワクチンを、
新規もしくは重複接種を指導するって、どういう知能なのでしょう。
「一杯ワクチンが余ってるの!
予算を一杯無駄遣いしちゃったのだから、お願い!!
少しは国民の皆さんも協力して、
無駄遣いじゃなかったことを証明しましょう!」
そんなところでしょう。

大阪弁で言わせてもらいましょう。
「アホも、ええ加減にせえや!」

真相はこうです。
これまで、インフルエンザとは異質なウイルス性パンデミックでは、
有効なワクチン接種の成功例などありませんでした。
今回、新型コロナについては、米薬品会社は、
有効なワクチン開発に成功したと喧伝して、
未曾有の販売利益を上げてきました。
この世でもっと儲かっている企業は、兵器産業ではありません。
薬品会社なのです。
期限切れワクチンを使い続けるという姑息な手段で、
薬品会社の利益率はさらに飛躍的に上昇しているようことは疑いがありません。
要するに、兵器産業と違い、原価が超格安、儲け率最高!
薬品メーカーは関連の専門家達を取り込んで、
今回初めて、有効なワクチン開発に成功したと喧伝して、
売りまくってきました。
でも、ワクチン未接種者の方が罹患しやすいことが証明された事実はありません!
証明された事実は、
「ワクチン接種がコロナ感染を防ぐという事実は証明されていない」、
ただこれだけです。
だから、ワクチン会社は、
「ワクチン接種を受けた方が安全だ」とは言えないことは確かです。

政府は誰の味方なのでしょうか?
国民にワクチン接種する方針を断固推し進めながら、
コロナの感染状況、ワクチン接種の有効性については、
依然として、情報を封鎖しています。
一方では、国民に経済活動を活発化させる方向のようです。
情報がない、ということは、もうコロナは過去のものになりつつある、
そういうことなんだろうなあ、と、漠然と安心させて、
しっかり操業させたいのでしょう。

私も、遠くにどよもす、見えぬ敵の鬨の声など気にせず、
今すべきことを、平常通りに一つ一つこなしていくことにしたい、
そう考えています。
コロナ疾患にかかる確率は、
たしかに一億円籤が当たる確率よりはるかに高率です。
でも、だから、ワクチン接種?
そう浮き足立つことはないではありませんか?
私は、インフルエンザの時代から、ワクチンなど打ったことがありません。
それでいて、流行性疾患に罹患したことはありません。
どんなに流行しても、社会の隅々にまで流行が及ぶことはないのです。
ミクロに生きる人間は、マクロのことなど、
誰かに任せておけばよいのです。
宝くじと一緒です。
確かに誰かが一億円の籤を引き当て、人生が一変するでしょう。
でも、統計値から見ると、一生籤売り出しの度に、
なけなしの貯金をはたいて、どっさり買い続けても、
一億円籤を引き当てることは絶対にありません。

さて、プラナー50㎜f2の写真。
さすがにツァイス唯一の一眼レフの標準レンズです。
どこかしら、「雄渾」という言葉を彷彿とさせる、
ある種の堂々たる風格を漂わせる描写です。
マクロスイターとツァイスプラナー、
この2本があれば、標準レンズは十分!
そう言ってしまいそうです。

プラナー、実は、銀塩フィルムでの写真の方が、
ソニーα7sの写真よりも格段に雄渾でした。
別格の描写力を発揮していました。
ソニーα7sによるプラナー描写は、
たしかに堂々たる描写ですが、
「雄渾」という風格と評するのはいささか無理。
でも、フィルム時代に戻るのは、もう無理ですね。
アマチュア写真家として作品作りをしたい、と言うのであれば、
銀塩フィルムはディジタルよりも遥かに、
厚みある画像に仕上げてくれます。
でも、ブログの写真は私のノートパソコンで横幅14センチ弱。
それも誰も来ないブログのパーツにするためなのですから、
ほんの小さなロボグラフィ写真を並べることで事足れり。
ここで、昔の人の言葉遣いを真似れば、
さは、さりながら、コンタレックスプラナーはさすがです。
ブログ添付写真でも、他のレンズの写真とは一味違う、
ある種の厚みを感じさせてくれるようです。



2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11411050.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11405722.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11404799.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11403807.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11402999.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11401172.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11400147.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11395243.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11392264.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11391370.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11390365.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11351462.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11345380.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11343706.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11341789.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11340581.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11335463.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11333291.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11331135.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11324765.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11322268.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11321571.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11320937.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11315131.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11311305.jpg
2360 コロナ、来るな (2023年4月20日プラナー50㎜F2お供に、肘塚経由で奈良町まで)雄渾!_c0168172_11214995.jpg





# by hologon158 | 2023-10-13 11:42 | ホロゴン外傳 | Comments(0)