2025年1月10日晴れ。
妻がちょっとした国内旅行を終えて、昨日帰宅しました。
私は、妻が旅に出ても、孤独を感じることはあまりありません。
あまりにも再々旅に出かけるから、慣れてしまいました。
そのうえ、猫たちが残っています。
私は生涯「留守番人生、猫たち世話係」を楽しむことになりそうです。
私同様に残される猫二人のために生きつつ、昼間はロボグラフィ散歩を楽しむ!
考えようによっては、「大病で配偶者がおそらく生涯入院」という運命を背負わされた人にかなり近い老後人生かもしれません。
でも、配偶者が元気一杯であるという一点が輝きます。
これぞ、私の人生の利点であることは疑いがありません。
家人介護の重荷がないのですから。
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午前11時過ぎの定期バスで東大寺前下車。
この時間帯、東大寺、春日大社に向かう諸国の旅人たち、
つまり、にわか参詣者たちは西から東に延びる坂道を数珠繋ぎに上ってきます。
私はそんな参詣者たちとすれ違いながら、
伸ばした両手の先に握ってソニーα7sで撮りまくります。
私は、撮影前も後も、液晶画面でスナップ画像を一々チェックしたりしませんから、
たいていの場合、写真を撮ったことも気づかれません。
そんな形で撮影する人はどれだけ居るのでしょう? 知りたいですね。
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私のロボグラフィの場合、かくして、ホロゴン15mmF8だけは常に横位置で撮ることにしています。以前は、21mmレンズの場合でも、ホロゴン同様に、横位置専科で撮っていたのですが、ちょっと続けて気が付きました。意図していないことですが、この撮り方はまるで、2本の21mmレンズをむち打って、大旦那のホロゴン15mmF8に対抗させようとしている風情を醸し出してしまいます。
私にとって、この2本の21mmレンズはけっしてホロゴン15mmF8の対抗馬にはならない! でも、将来いつかに、私のブログでかなりのクラシックレンズの描写性を確かめることができることに気づく人がいるかも知れません。そんな方が来ないようにするためにも、私のブログは人に知られないのが一番。
そのための便法として、ホロゴン15mmF8は横位置専科で撮り、スーパーアンギュロン21mmF3.4は縦位置専科で撮ることにしたのです。(なんでそれが便法になるのか、訳が分からないことはさておきましょう)
このレンズ、ホロゴン15mmF8とはわずか6mmしか焦点距離が違わない21mmレンズですが、縦位置での撮れ方は、かなり、というより、むしろ完全に「まるっきり違います!」。
この違いをごくシンプルに言い表してみましょう。
「21mmは縦位置でもなんとか自然に撮れますが、15mmは縦位置にすると、とんでもない超広角レンズの色彩濃いデフォルメ画像になってしまう。これに対して、スーパーアンギュロンの縦位置はダイナミックな力感にあふれる写真になる可能性を秘めています。」
つまり、ホロゴン15mmF8と二種の21mmレンズとは、「完全に異なる仕事をするレンズ」なのです。と言うよりも、正確にはこう言った方が良さそうです。
「ホロゴン15mmF8は、21mmレンズと異なり、仕事には使えない!」
もちろん、ある写真家が室内写真にホロゴン15mmF8を活用したことを知っています。
この写真家はかなりホロゴン15mmF8を好んだことが分かっていますが、いわゆる写真アートのジャンルでは、ホロゴン15mmF8を使わなかったようです。私は、より正確にはこう言うべきだと考えます。
「この写真家はホロゴン15mmF8を作品づくりには使えなかった!」
たちまち、「ただのレンズ好きの素人が生意気な!」そう非難されそうです。そんな非難を避けるためにも、この写真家の名前は秘匿しておきましょう。
でも、大きな顔して言わせていただきますが、私は、写真アートのジャンルの中では、この写真家も含めて、誰一人、ホロゴン15mmF8を使って作品作りをした人を知りません。
その理由も、私には分かります。こう言わせていただきます、
「アマはもとより、プロの写真家のみなさんも、
ホロゴン15mmF8の横位置写真の撮り方を知らなかった!」
その理由は実にシンプルです。
「アマはもとより、プロの写真家のみなさんも、ホロゴン15mmF8の横位置写真は、辻斬りが剣を振るうやり方で撮らなければならないことを知らなかった!」
ところで、辻斬りって、どんなやり方で行われたのでしょう?
私は映画でしか観たことがないので、確かなことは言えませんが、ほとんど隙間のない距離ですれ違う瞬間に、いきなり剣を抜いて、横になで切りにしたのではないでしょうか? つまり、被害者にとっては、予告なき殺人事件なのです。そんなやり方をしないと、辻斬り、試し斬りをすることはできなかったのと同様に、ホロゴン15mmF8はまさにこの撮り方でないと、写真にはなりません。それより離れると、無関係な周辺まで写ってしまう。辻斬りで言いますと、剣が犠牲者に届いていない!
現代の写真家は、他人のプライバシーを侵害してはならないとされていますから、そんな辻斬り距離で撮った写真を作品として発表することができないのでしょう。
あるとき、新聞社が雑踏を撮った際、そこに写っている第三者全員を探して、わざわざ連絡をとって、作品を営業目的で使うことも許諾を撮ったと読んだことがあります。
「そんなアホなこと、するんじゃない!」そう言いたくなります。でも、訴訟になったときの解決までの時間と手間と費用を考えると、事前許諾はむしろ安上がりなのかも知れません。
でも、私がそんな事件の担当裁判官なら、おそらくかなりシンプルに損害賠償請求を棄却してしまうでしょう。
理由は簡単です。
この請求は、①不法行為によって、②被害者に損害を与えたこと、この二つの事実を原告(被害者)主張して、その事実が起こったことを立証しなければなりません。
つまり、新聞社はこの二つの事実を否定する証明をする必要などありません。
否定の立証はたいていの場合無意味です。過剰防衛行動を行っているのです。
被害者と称する側が主張し立証しなければならないことは当然中の当然なのにねえ。
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さて、本日のレンズ。
ソニーα7s
ペラール24mmF4
レンズ制作名人宮崎貞安さんによる超広角レンズの傑作です。
私は気に入っています。とても目立たない超小型レンズなのですから。
どれくらい超小型なのか?
直径は2ミリにも満たないのです。
それなのに、かなり自然な描写です。誇張がないので、リアルかつ自然な画像。
つまり、なんだか存在も描写性も徹頭徹尾ナチュラル!!
こんなレンズが宮崎貞安さんの真骨頂なのです。
ダイナミックなホロゴンも良いけど、
ペラールのどこまでもさりげない描写も好ましい!
とても日本的な佇まい、そう言いたくなってしまいます。
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by hologon158
| 2025-05-16 23:00
| ホロゴン外傳
|
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2025年1月6日、本日もやはり奈良町に出かけました。
そこで考えたこと。
「もしあなたが男性で、
イングリッド・バーグマンとオードリー・ヘプバーンを掛け合わせたほどの超越的な美女と結婚したとしましょう。
これはある種の災難につながります。
妻と家を出ようとしますと、門前から通りまで、
びっしりと報道陣、写真家陣がひしめき合っている!
なんとか押しのけて、バス停に。
数百人の報道陣がバス停にひしめきあう。
なんとかバスに乗り込んだら、報道陣が続いてワッと乗り込み、
車内はワッショイワッショイ状態に。」
後は書くまでもありません。
どこかで「おトイレに」なんてことは不可能。
どんな行動をとっても、夕刊、翌日の朝刊、週刊誌に、
夫婦の一挙手一投足が掲載されるでしょう。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
今回使ったプラナーをバーグマン、ヘプバーンになぞらえるのは行き過ぎかもしれません。
でも、要するに、レンズは道具でなければならない!
プロの写真家であればあるほど、そうでしょう。
「ダイアナ妃が実は生きていた!」なんていう号外が世界を騒がせるかも知れません。
そんな写真をみて、
「ふーむ、やっぱりニコンレンズだねえ。
このダイアナ妃の肌の毛穴が全部ばっちり。
昨日やられたか、蚊に刺された後も、かすかだけどクッキリ残っている!」
だけど、これらすべてが、誰も喜ばない瑣末情報ですね。
そう、写真アート的な観点に照らしますと、
レンズには美的限界、節度をある程度整えておく必要がありそうです。
私が現代デジタルカメラ、デジタルレンズを使わないのは、そのせいです。
30畳分の大きさの写真だって、精密感を万全に打ち出すことができる!
どうぞどうぞ! プロの皆さんは大歓迎でしょう。
たしかに、大都会の巨大広告には役立つでしょう。
でも、私は違います。自然さを尊ぶ人たちの一人です。
人間の視力を超えた精密描写って、いったい何なのでしょうか?
余計な御世話、やりすぎ!
そんな超自然的精密感など完全な無用の長物です。
私は、現代世界にとっては、望ましいユーザーではありません。
こういうのを「時代遅れ」というのでしょうね。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
ソニーα7sはもちろんデジタルカメラです。
でも、私はオールドレンズをその画質のままに使いたい。
そして、このカメラの設定を最低限に設定することで、
かろうじて、オールドレンズの味わいを出すことができます。
つまり、レンズを変えると、そのレンズの味で画像が再現できます。
そして、一眼レフなのに、軽くて小さい。手の中にすっぽり収まります。
ソニーよ、ありがとう! いつも感謝しています。
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by hologon158
| 2025-04-13 18:27
| ホロゴン外傳
|
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22025年1月6日、やはり奈良町に出かけました。
そこで考えたこと。
もしあなたが男性で、
イングリッド・バーグマンとオードリー・ヘプバーンを掛け合わせたほどの超越的な美女と結婚したとしましょう。
これはある種の災難につながります。
妻と家を出ようとしますと、門前から通りまで、
びっしりと報道陣、写真家陣がひしめき合っている!
なんとか押しのけて、バス停に。
数百人の報道陣がバス停にひしめきあう。
なんとかバスに乗り込んだら、報道陣が続いてワッと乗り込み、
車内はワッショイワッショイ状態に。
後は書くまでもありません。
どこかで「おトイレに」なんてことは不可能。
どんな行動をとっても、夕刊、翌日の朝刊、週刊誌に、夫婦の一挙手一投足が掲載されるでしょう。
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今回使ったエクターをバーグマン、ヘプバーンになぞらえるのは行き過ぎかもしれません。
でも、要するに、レンズは道具でなければならない!
プロの写真家であればあるほど、そうでしょう。
「ダイアナ妃が実は生きていた!」なんていう号外が世界を騒がせるかも知れません。
そんな写真をみて、
「ふーむ、やっぱりニコンレンズだねえ。
このダイアナ妃の肌の毛穴が全部ばっちり。
昨日やられたか、蚊に刺された後も、かすかだけどクッキリ残っている!」
すべて、誰も喜ばない瑣末情報ですね。
そう、レンズには美的限界、節度をある程度整えておく必要がありそうです。
私が現代デジタルカメラ、デジタルレンズを使わないのは、そのせいです。
30畳分の大きさの写真だって、精密感を万全に打ち出すことができる!
どうぞどうぞ! プロの皆さんは大歓迎でしょう。
たしかに、大都会の巨大広告には役立つでしょう。
でも、私は違います。自然さを尊ぶ人たちの一人です。
そんな超自然的精密感など完全な無用の長物です。
私は、現代世界にとっては、望ましいユーザーではありません。
こういうのを「時代遅れ」というのでしょうね。
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ソニーα7sはもちろんデジタルカメラです。
でも、私はオールドレンズをその画質のままに使いたい。
そして、このカメラの設定を最低限に設定することで、
かろうじて、オールドレンズの味わいを出すことができます。
つまり、レンズを変えると、そのレンズの味で画像が再現できます。
そして、一眼レフなのに、軽くて小さい。手の中にすっぽり収まります。
ソニーよ、ありがとう! いつも感謝しています。
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by hologon158
| 2025-04-12 21:14
| ホロゴン外傳
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いわゆる「独創的な写真作品」を制作しようと目指して撮影活動を行う人を「写真家」と呼ぶのがふさわしいようです。
そうすると、いわゆる報道写真家のような、取材元の要望に応じて、ニュース報道の重要な素材となる写真を撮る報道写真家は必ずしも「写真家」には該当しない。つまり、常に「写真家」となるわけではないかも知れません。むしろ「写真屋」かな?
一方、写真によって経済活動を行うのではなく、いわば「ホビーとしての写真」を余暇に撮影し、報酬ではなくて、写真作品の価値で勝負したいと考えるのがいわゆる「アマチュア写真家」。私も大学生の頃からこの「アマチュア写真家」だったわけです。
多くの仲間はすでに自分が一端の「写真家」になっていると考えていることが分かり、かなり驚きました。ただの「思い上がり」に過ぎないことは、彼らの写真を一目見ただけで分かりました。誤解のないように付記しておきますが、私は自分が「写真家」であると考えたことはただの一度もありません。ひたすら「ただの写真好き」であるという自覚を保ってきました。
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この否定しがたい真実にぶつからないままに、「自分は写真家だ。それも、かなりの写真家だ!」、
そう自覚している人が至る所にいました。私が一時所属していた写真教室のメンバーもその一人でした。
かなり好調なのでしょう、跡取りに商売は委ね、自分は隠居して、アマチュア写真家に転身したわけです。
写真歴はまだ数年なのですが、自分ではいきなり写真家になったと自覚(実は錯覚)して、あるとき豪語しました。
「カルティエ・ブレッソンなんて、もう今では時代遅れだ。我々の方が遙かに優れている!」
どこをどう押せば、そんなアイデアが飛び出すのでしょうか? でも、そのような思い上がりを正すのは考え物です。多くの真実の大写真家たちも同様の蔑視に曝されつつ、自己の写真世界を開拓していったのです。でも、本物の写真家たち、批評家たち、さらには他のジャンルのアーチストたちが、「この人は別格だ! 本物のアーチストだ。現代写真界を遙かなる高みに向かってレベルアップする業績を上げた人だ。
そう批評家からも、写真家たちからも異口同音に承認される人がまさに「写真家」なのでしょう。つまり、「写真家」の末尾「家」は、「写真で生活している人」であることもありますが、本来の意味での、つまり、芸術写真の創造者としての「写真家」こそ、歴史に名を止めるべき真の写真家なのではないでしょうか?
そんな風に考えると、上記の旦那芸のアマチュア写真家なんて、どんなに鯱立ちしても、その域に到達することなどありえません。アマチュア写真家なんて、ただの素人芸であり、
写真芸術の才能など備わっている可能性は希有であることは言うまでもないことです。
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私など、数十冊の写真集にまとめて、一冊本として製本してもらいました。友人たちのためにも十数冊は制作いたしました。
でも、だから、自分を写真家であるなどと、頭の片隅にさえも閃いたことがありません。
ときどき気の利いた写真作品が撮れたこともありますが、すべてがただの「偶然の幸運」でしかありません。
昔から使い古された「下手の鉄砲、数打ちゃ、当たる!」にしか過ぎません。
そんな自己欺瞞を平気で犯せる人がこの世には五万をいるわけです。
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さて、本日の写真。
ソニーα7s
エクター50㎜F1.9
コダックが製作した唯一のレンズ交換型カメラがエクトラです。私はクラシックカメラ店で一度触らせてもらっただけ。
がっしりと頑丈そうな作りであったことが印象的でした。たとえて言えば、コンクリート床に落としても平気かもしれないな。
そんな感じ。あまりに高価で、ついに手が出ませんでした。ただ、その交換レンズの一本を手に入れられたのは幸運でした。
それがこのレンズです。
さすがにコダックです。自社の企画製作した記念碑的なカメラに独特のコク深いレンズを用意しました。今回はその標準レンズです。
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by hologon158
| 2025-04-08 15:53
| ホロゴン外傳
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2024年7月26日金曜日、晴れ
昨夜、まさに本日なのでしたが、
名作をひとつ観ました
小津安二郎監督、原節子さん主演の「東京物語」
もう何度観たか、数えられません。
節目節目に小津監督の名作、
とくに「東京物語」「晩春」「麦秋」の三作品をこの順番に観ます。
いつも感じることですが、
なんて素人っぽい脚本なんだ!
このかったるい台詞はなんだ?
ところが、そんな言葉のやりとりにいつしか心を奪われている!
小津監督は、日本が丁度彼を必要とする時に出現し、
原節子さんと笠智衆さんという希代の名優を得て、
上記の三作品を作りました。
全台詞を含めて脚本も演出も編集もすべて自分でやったようです。
最初は、なんだかかったるい台詞のやりとり、
鈍重な場面展開、不自然なほどの人物配置、
互いに邪魔しあわないように細心の注意を払って、
演技者たちを布置するのですが、
気がついてみると、私は彼等の人間的な心の交錯に心を奪われてしまっている。
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小津監督はかなり面白い仕掛けを使います。
幕間的な場面では、まるで素人同然の俳優を登場させるのです。
その最たるケースが、「東京物語」の近所のおばちゃん。
下手ッピイそのものなのに、
この映画の最大のクライマックスシーンの前後に登場するのです。
不思議なことに、笠智衆演じる父親の家の一階居間の廊下の外を通りかかって、
一家の主人にお愛想の言葉をかけ、笠もこれにあたたかく応じる、という寸劇。
一家団欒の居間のすぐ外が他人の通路になっている?
まことに不思議な設定。
しかも、当たり前のなんの意味もないシーンなのですが、
下手ッピイな台詞のやりとりが、愛する妻を失った一家の主人に
ある種のカタルシスをもたらします。
ただのお愛想の空疎な言葉が一家の悲劇をくっくりと鮮やかに浮かび出させる、
そんな役割を果たしているようです。
平穏に生きてきた主人公たち一家に
突然ババンババンと畳みかけて襲いかかる悲劇を、
徹頭徹尾フォルテッシモで「これでもかこれでもか」と描ききると、
かえって観衆の心をいたずらにざわめかせるだけになるのかも知れません。
イタリアオペラで、男性主人公が一瞬の休止譜の直後にフォルテッシモで歌い上げることによって、
聴衆の心をグイッと悲嘆の局地に押し上げる、そんな演出に似ています。
まあ、簡単に言えば、ご近所のおばちゃんは、
「休止符」の役割を果たす助演を見事に果たしているということなのでしょう。
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笠智衆の妻を演じた東山千栄子さん、存在感のある母親の姿が感動的です。
この映画のラストあたりでは、死の床に横たわる母親という静止の演技だけ。
かなり苦しかったと思いますね。
どうやらあらゆる人間状態が交錯するシリアスドラマでは、
「死の床に横たわる母親」という演技を果たさなければならない俳優もいる、というわけです。
しかも、子供たちも大変です。
かなり昔に独立してしまって、東京、大阪で生きてきただけに、
どうも真摯な悲痛の気持ちになれない、
そんなある種、薄情な子供の姿をさりげなく演じなければならない。
そんな子供たちとまさに対照的に、
いわば他人でしかない、戦死した息子の嫁が、
心の底から誠実に悲しみを感じている。
そんな姿を原節子さんが見事に演じています。
小津安二郎の映画史の最高峰となる、いわば名作群は、笠智衆と原節子という、
二人の名優の一世一代の演技があってはじめて成立した!
そう言ってもよさそうです。
もちろん他の演技者たちも主演俳優の名演を支え、
引き立てるという、かなり難しい仕事を見事にこなしているのでしょうけど。
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この名作を何度観たか、数え切れません。
7、8回は間違いなく観ています。
そんな映画が何作かあります。
どの国の映画もどうやらそうかも知れない、
というひとつの顕著な傾向、流れがあります。
現代映画はすでに仮想空間での場面展開に支配されています。
コンピューターグラフィックスが実写シーンと見事に融合して、
とんでもないドラマチックなシーンがこれでもかこれでもかと続きます。
その結果は、私に言わせれば、破壊的です。
人間ドラマが劇画にとって代わられました。
偉大な名演は奇跡的な場面展開を果たすコンピューターグラフィックスに埋もれてしまいました。
昔の映画鑑賞者たちは、主人公の目からぽろりと流れ出た一粒の涙に、生涯忘れ得ぬ感動を覚えました。
現代の映画鑑賞者たちはそんな人間の心のドラマがあったことさえも知らない時代になってしまいました。
もしかすると、すべての人間には「心」があり、
その心を満たす情感があることなど知らない人間が出現しつつあるのではないか?
つまり、人間はロボットそのものになりつつあるのではないか?
人間の心も知恵も超高速化し、深い真心など無意味な時代が到来しつつあるのではないか?
そんな疑いを私は真剣に感じています。
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さて、写真です。
ソニーα7s
ホロゴン15㎜F8
私は写真趣味を始めて30年ほどした頃、
ホロゴンウルトラワイドに出会いました。
ホロゴン専用のカメラです。稀代のキテレツカメラで、
ホールディングがなかなか厄介でした。
カメラボディからちらりとでも前に出たら、写ってしまう!
購入当初、ストリートで2本ばかり試写してびっくり!
ほとんどすべてのショットの画面両側に肉の塊のようなものが写っていたのです。
私の指の先でした。
たしか画角は110度ですし、レンズ先端はカメラ前面よりも少し奥まった位置にあったので、
まさかボディの両端を掴んで撮ったら、指が写ってしまうなんて、推測不能だったわけです。
でも、さすがに両端に肉の塊が写っている写真なんか、気味が悪くて使い物になりません。
カメラ本体から前方にちらりともはみ出ないホールディングを工夫しました。
かくして指が画面にはみ出ることはなくなったのですが、110度の画角はさすがに広すぎます。
1m以上離れると、前面の光景が全部写り込むので、人に見せると、
誰もが一様に、「ああ、すごい広角レンズで撮りましたねえ!」 ただこれだけ。
後に知りましたが、建築家にユーザーが居たようです。
いかにも超広角でございという雰囲気ではありますが、ともかく巨大な建築全体が撮れます。
私は、アマチュア写真家時代、基本的にはストリートフォト専科でしたから、
あたりの誰もが全然気づかない状態で、ストリートの光景を撮ることができました。
今回の写真のすべてが歩きながらのスナップ。
この撮り方にこそ、パンフォーカスレンズの極致であるホロゴンの真骨頂が発揮されている、
そう豪語させていただきましょう。
居合抜きの極意は、斬られた方が斬られたことに気づかず、絶命する、ということだったようです。
ホロゴンは居合刀なのです。
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by hologon158
| 2025-03-05 23:36
| ホロゴンデイ
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