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49.15 ホロゴンデイ20「2008年10月5日羅漢さん」15 カルティエ=ブレッソン伝説は崩れたか?


「フォト・リテラシー」の中で、著者の今橋映子さんは、
カルティエ=ブレッソンの写真集「決定的瞬間」の作品は、
カルティエ=ブレッソンの鋭い勘によって撮れたものであると判断して(もちろん正しい判断)、
「それならば余計に、「決定的瞬間」の映像と言ってしまって良いのではないか、
という意見も出るだろう。ところが、
そうは簡単には片付けられない別の事実が、つい最近提示された」として、
「サンラザール駅裏」の作品が実はトリミングであったという事実をあげています。
著者は、カルティエ=ブレッソンの公表作品中トリミングはたった2枚ということで、
新事実の公表は「幾何学者」の異名を汚すものではないとしつつ、
こう述べるのです、
「とはいえ、私たちは、少なくともあの有名な「サンラザール駅裏」が、
トリミング映像だったと知った途端、
写真を見るという行為に改めて自覚的であることを促されるのではないだろうか。
カルティエ=ブレッソンだからこそ可能であった絶妙な構図が、
私たちの中では常に自動的に、現実を目の前にして、
ある絶頂のタイミングをつかみ、そのままに読者に提示されたものという思いこみを生み、
ひいては優れたドキュメンタリー写真とはそうであるはず、
あるいはあるべきという妄信を生んではいないだろうか」
なぜ、そんな風に極端な結論に飛びついてしまうのでしょうか?
なんで妄信なのか、ちょっと私には理解できないのです。
「写真を見る行為に自覚的であるべき」というのは、
おそらく写真にだまされてはいけませんよ、
トリミングだってありうるのですからね、という意味に読めます。
でも、カルティエ=ブレッソンの全生涯の公表作品が仮に千枚としましょう。
その内、たった2枚トリミングしたという事実が明らかになったからと言って、
この写真以上に絶妙なスナップが数知れず存在するのに、
カルティエ=ブレッソンの生んだ一つのスナップの理想、
「現実を目の前にして、ある絶頂のタイミングをつかみ、そのままに読者に提示する」
この理想が虚構だった、嘘だった、間違いだったということになるはずがないのです。
もちろん、それだけがストリート・スナップの唯一の表現形式ではないことは明らか。
でも、カルティエ=ブレッソンのあの作品群を眼前にするたびに、
(私は少なくとも3度、写真展を観ることができ、
6冊の写真集をもっています)
さまざまな現実をこれだけ画面一杯に美しく捉え、
音楽をさえも感じさせる、清澄で生彩に富んだ作品群は他にない、
こんな写真を生涯に一枚でも撮れたらなあ、
と、ため息の出る想いを重ねてきたのです。
だから、私には、トリミング2枚の存在は、
カルティエ=ブレッソン伝説をいかなる意味でも修正しない、
そう考えるのですが、いかがでしょうか?
なお、つけ加えますが、私は、
いや、私に限らず、カルティエ=ブレッソン愛好家のほとんどは、
最初から、トリミングに気づいていました。
ノートリ印の黒枠が出せたのであれば、わざわざ外すはずがないじゃないですか!
(このことは、幾度も友人と話し合ったものです。
新事実は、カルティエ=ブレッソン財団からの公表ということだけ)
それに、この写真をよーくご覧下さい、
どこか寸詰まり、窮屈で、居心地の悪い想いをさせませんか?
この本にはオリジナルも掲載されています。
左の柵による前ボケ部分がちょっと重いのですが、
飛ぶ人物の右も少し拡がっていて、
トリミング作品よりももっとナチュラルで空気感があります。
オリジナルのままで発表してほしかったですね。

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by Hologon158 | 2009-02-01 14:45 | ホロゴンデイ | Comments(0)