わが友ホロゴン・わが夢タンバール

94.28 ホロゴンデイ27「2009年5月2日滋賀木之本も路地裏宝庫」28 カメラを傾けて撮れば?

森山大道展で驚いたことは、若い人が多いことでした。
90%以上が40代以下だったようです。
そのうちかなりの人がカメラを持っていました。
次代の森山大道を目指す人も幾人か混じっているのかも知れません。
書店が主催しているサイン会なので、大道先生の写真集、著書が十数冊並んでいます。
壁面には傑作2枚のポスター。
それが子供と野良犬であるあたり、なかなか商売気のある選択と見ました。
そんな本が並んでいるシーンやポスターを若い男性カメラマンが盛んに撮っています。
その姿を見て、思わず笑ってしまいました。
カメラを傾けて撮っているのです。
以前、須田一政塾を見学したときも、
塾生たちが持参した写真には盛んに斜め構図が混じっていました。
私の友人も塾に加入した途端、それまでの毅然とした正立構図は崩れ去り、
ブレ、ボケ、ぐちゃぐちゃ構図に変貌しました。
私は、大写真家が撮った数枚をのぞいて、
そんな斜め構図の写真に一度として納得したことがありません。
森山大道や中平卓馬ら前衛写真家たちがブレ、ボケ、構図崩しを流行させました。
私にはよく分かりませんが、彼らにはそんな撮り方をする必然性があったのでしょう。
時代を撮るために、そのような手法が適切だったのかも知れませんが、
彼ら撮影者側の心情、精神にもそうした手法をとらせるだけの切迫性があったはず。
そこに浮かび上がったのは、すさんだ時代のすさんだ写真家の心でした。
混迷と不安の時代に行き場を失って右往左往している姿が赤裸々に浮かび上がっていたのです。
大道ファンのカメラマンたちがその外観、手法から入るのは理解できますが、
今、そうしたいわば荒れた写真を撮る必然性が、社会的にあるのでしょうか?
彼ら自身にそうした精神構造、ぎりぎりの線まで追いやられる心情があるのでしょうか?
私にはそうは思えないのです。
安楽な生活の中で写真でもしようか、よし、写真家になろう、そう考える若者たちが、
既成のカリスマ的写真家の撮り方だけを真似て、どこに行こうというのでしょう?
写真家の出発点は、つねに、撮影法ではなくて、自分自身であるはず。
第1、人の撮り方を真似て、写真家になる?
ちょっとお笑いぐさではありませんか?
大道も卓馬も、当初の手法はあっという間に流行と化し、衝撃の力が消え、
写真表現としての必然性を失ってしまい、
自分の写真を苦悩し、懊悩し、袋小路に激突し、行き場を失って、
薬中毒に逃げ、低迷の荒野を彷徨し、その果てに見いだした活路を経て、
いわば生まれ変わって、現在の栄光の時代に生きています。
そうであればあるほど、先端の指導的写真家としてさらに革新と変革と進化を求められて、
今でも、なおさまざまな苦悩、迷いに苦しめられる日々なのかも知れません。
撮影技法はそうした懊悩の深海から浮かび上がる必死のあがきから生まれ出てくるもので、
人真似ではとてもおっつきません。
撮影者の人間性全体が写真を決めるのであって、
つねに人間が先、写真はあと、ではないでしょうか?
写真に心を感じてもらいたければ、心を育てるのが、写真家志望者の第1の仕事。
もし写真家の道を志すのであれば、絶対に避けるべきこと、それは、
大写真家の手法の小手先の真似事ではないでしょうか?
カメラを傾けて写真家になれるのであれば、こんな楽なことはありませんね。

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by Hologon158 | 2009-07-26 11:01 | Comments(0)