わが友ホロゴン・わが夢タンバール

134.03 ホロゴンデイ39「平成10年1月16日大阪日本橋にレアレンズちん入し」3 客観的な観察者?

前回の、私の銀塩レンズ讃、にわかには賛同していただけないことでしょう。
分かっています。
私のような銀塩党はいまや自民党状態、つまり崩壊一歩手前なのですから。
ですから、悪あがきかも知れませんが、もう少し書きます。

一番肝心なことは、
情報量が豊かになればなるほど、失われてしまうものがあるということ。
私たちは、眼前のものをすべて見ているわけではありません。
視覚は、注意の連続によって、網膜像を作り出します。
角を曲がる。
いきなり、フォトジェニックな光景が眼に飛び込んできます。
その一瞬からほんの数秒で網膜像ができあがります。
像の大半は実は、経験が作り出す虚像。
そこまで全部見ることなどできないからです。
その瞬間にシャッターを切ったとしますと、
レンズは、撮影者の視覚とは別個独立に、
そのレンズ特性に応じて画像を記録します。
それもまた一つの選択であり、レンズ特有の虚像を含んでいます。
この現実世界に、客観的に正確な像など実現不可能です。
そんな客観的世界など存在しません。
つねに見る者と見られるものとの対話、選択のファクターがあるからです。
私が考えるのは、そこに問題があるということなのです。
レンズの映像に含まれる「これがほんとの姿なのだ」という主張は、
実はよけいなお世話なのです。
詳しければ詳しいほど、私の視覚イメージとは合わなくなる。
どこか違和感があり、
それなのに、カメラは、「私こそ客観的な観察者なのです」と押しつけてくる。
でも、客観的な観察者などありえない。
カメラは、自分が実はかなり偏った観察者であることに気づいていないのです。
私は、完全に主観的で偏った観察者です。
私の心と知覚とが融合した独特の体験を記憶しています。
ですから、同じ場所に数人いても、それぞれに独自の体験を記憶するので、
一つとして同じ知覚体験はないのです。
ある人が見えたと思っているものを、他の人は見ていない。
ある人が存在したと確信している状態は、他の人の確信とは異なっています。
写真をする人の多くは、かなりのカメラ、レンズ遍歴を経験しています。
私が思うに、それは、自分の記憶と写真とが、望ましい具合に対応している、
自分の記憶を、自分が欲するような形で写真にしてくれる、
そんなレンズを探しているのではないでしょうか?
極度に精密精彩な画像を希求するデジタルレンズは、いわば、やり過ぎ。
クラシックレンズ遍歴の面白さ、意義はそこにある、
そして、私はそんなレンズを見つけた、それがホロゴンなのだ、
私はそう信じています。

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by Hologon158 | 2010-01-29 21:23 | ホロゴンデイ | Comments(0)