190.32 ホロゴンデイ57「2010年10月9日葛城古道はやまぬ雨に暗く沈み」32 平木収の「写真の心」
写真評論家平木収の「写真の心」(平凡社刊)を手に入れました。
久しぶりに、他人の写真論を読むことができます。
最初のセクションに面白い言葉がありました。
写真展の見方は、初歩の英文法に似ている。
写真展の文法は、
写真家(S)が、写真を撮って展示する(V)、何かを表現するために(O)。
この意識が実際に熟すまではただ無秩序に、
写されているものの形だけを眺めていたようだ。
表現の文脈に意を注がず、
単に視覚の断片の集積として展示作品に接していたような気がする。
一皮剥けば、写真一枚一枚を見た感じの好き嫌いだけで、
その作品を値踏みしていた。
私なんか、まさにそのとおりですね。
初歩の初歩の見方しかしていないのでしょう。
でも、平木収の言葉が常に正しいとは限りません。
写真家が、自分のお気に入りの写真作品をずらりと並べたい、
そんなことだってあります。
写真展の名前はちゃんとつけますが、
それは単なる束ねのゴム輪のようなもの。
実際には、一枚一枚の写真が隣の作品とは無関係に自己主張している。
そんな写真展だって、許されてよいはず。
また、過去の写真展にはそんなものがかなりあったように思われます。
こんな写真展も、上記のS+V+Oで理解することはできます。
でも、写真に向き合うときは、
写真がはっきりと自己主張しているのに、気づきます、
「私だけを見てね!」
総合作品と単一作品集、この2つにははっきりと溝があるというべきでしょう。
ブログを訪問したときも、複数の写真が1記事に並べられているとき、
このどちらかが分からないことが多いですね。
私は、しかし、その写真の枚数にこだわらず、
強引に、すべて1セットの総合作品として受け取ることにしています。
そうして、写真家の意図、目的、動機、解釈、創造性、成果を吟味するのは、
ちょっとしたパズル。
とてもおもしろいですね。
by Hologon158
| 2010-11-29 16:32
| ホロゴンデイ
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