201.29 ホロゴンデイ59「2011年1月2日新年は奈良町の出会いで始まった!」29 庶民の犠牲?
吉村昭の「戦艦武蔵ノート」を読みはじめました。
ちょっと気になる論理がありました。
第二次大戦当時、反戦思想の著述家が1ヶ月間絶食して、
徴兵を免れたという話を取り上げ、こんな風に書いています。
その人の代わりに、誰かが一人召集され、戦地に行ったのではないか、
もしかしたら、戦死したかもしれない。
「その著述家は、一人の庶民の犠牲の上に立って、
今生きていると言っても言いすぎではないだろう。
こうした責任感の乏しい人間を、私は人間として信用することができない」
彼の論理に立てば、すべての反戦徴兵拒否者に同様のことが成り立ち、
すべて責任感の乏しい人間だということになります。
彼は「著述家」と「庶民」と対比していますが、
彼は2つの点でおかしい。
1 ここで、著述家と庶民と対比する理由がありません。
著述家は庶民じゃないのですか?
吉村さん、ご自身、著述家じゃありませんか?
そうすると、あなたは庶民じゃないのですか?
庶民とそうでないとどう区別するのですか?
それがこの問題にどう関係するのですか?
はっきり言って、無関係です。
代わりに言ったのは、大金持ちかも知れませんしね。
2 それに、庶民が一人代わって戦地に行ったと、
あたかも特定の因果関係があるように行ってよいのでしょうか?
こんな論理なら、ありとあらゆる行動について、
同様の因果関係をつねに予測しなければ、
責任のある行動とは言えなくなります。
たとえば、
私がある職につくと、他の人がその職に就けない。
ある職を退くと、他の人がその職をひきうけなければならない。
それがその人にとってよいことか悪いことか、誰にも言えません。
でも、このせいで、運命が変わることは間違いありません。
ひょっとしたら、あなたがやめた後、
病弱な人がついたばかりに、激務で病気に倒れるかもしれません。
そうすると、あなたは無責任ということになりますか?
吉村さんのこの文章を読んで感じるのは、
これはある特定の著述家のことであり、
事情通が読めば、誰のことを言っているのかがわかるのだ。
吉村さんは、その人または反戦思想に反感を持っていて、
ここで筆誅を加えているのだということです。
一般に公刊する著作の中で、個人的筆誅はやめてほしいですね。
by Hologon158
| 2011-01-11 17:15
| ホロゴンデイ
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