221.39 ホロゴンデイ66「2011年3月6日濹東綺譚の荷風を気取ってはみたけど」39 紛れもなくホロゴン
音楽演奏を聴いていて、いつも感心することがあります。
グレン・グールドやマルタ・アルゲリッチのような天才たちが
自由奔放に弾いているように見えて、
ちゃんと伴奏のオーケストラ演奏と見事にかみ合っています。
独奏者もオーケストラも易々と無造作に弾いているように見えて、
オーケストラのメンバーはしっかり耳を澄ませて、
絶妙のタイミングで独奏を引き立てます。
アートは、一定の規範をクリアーすることで成立します。
絵でもそうですね。
レンブラントもフェルメールもダ・ヴィンチも、
それぞれに独特の作風があり、筆致があり、色遣いがあり、
それらが相まって、その人の絵を生み出します。
見れば、誰の絵だと分かります。
偉大な美術評論家が、ルネサンス期の作者不明の作品群から、
一人の未知の画家を作品群を抽出します。
これらは同じ一人の画家の絵であると主張したのです。
その後、その画家が実在していたことが立証されました。
眼力のある人が見ると、
絵には紛れもない指紋のような目印が見えるのです。
そこで、考えます。
写真にも同様のことが言えそうです。
写真家それぞれに、その人独特の筆致があります。
私にとって、写真の神さまであるカルティエ=ブレッソンと
木村伊兵衛には紛れもなくそれがあります。
しかも、若い頃からすでに備わっているのです。
カルティエ=ブレッソンは写真を始めた途端に、
もうどうしようもなくカルティエ=ブレッソンでした。
独自の人間性とセンスとが写真を人間性の延長としています。
そこで、翻って、自分を見つめてみますと、
最初から迷走、迷妄の道を、
あっちにふらふら、こっちにふらふら。
そのジグザグを今もなおくり返しています。
写真を見ても、たとえば、ホロゴンで撮ったものは、
紛れもなくホロゴンですが、
これは誰が撮っても、同じになりますので、
私の個性、私の筆致ではありません。
まずこのことをしっかりと自覚したことが、
私の偉いところであると、おおっぴらに自負しています。
自分自身について幻想を抱くことがありません。
無駄な努力もしなくて済むので、徒労感もなく、
挫折もない。
おかげで、のびのびと写真を楽しむことができるのですが、
だからと言って、そうすりゃ、思い通りの写真が撮れる、
なんてことは決して起こりません。
なにもからめ手作戦をとっているのではないのですから、
妄想はなしにしましょう。
結局、こういうことです。
レンズやカメラに凝っても、作風など作れません。
作風は、人生、写真観、撮影コンセプト、写真技法の融合。
つまり、人生から結実したなにかに後押しされて、
それを写真に表現しようと決意し、
地道にかつ周到に企画し、
その企画にふさわしい技術でもって、写真を撮る、
このプロセスのどれ1つもゆるがせにできない。
そんなものではないでしょうか?
by Hologon158
| 2011-04-08 00:13
| ホロゴンデイ
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