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252.26「 ホロゴンデイ74「2008年12月20日京は河原町に京ロボグラフィを探し」26 フェルメールと写真(1)



黒岩恭介「発見する力 現代美術の時空間」(水声社)
「写真とドガ」の章で、
著者はフェルメールへのカメラ・オブスキュラの影響について書いています。

    「士官と笑う女性」を例にあげてみよう。
    前景の士官の大きさ、それに対面する女性の小ささ、
    この極端な遠近法は左側の窓にもはっきりと示されている。
    それは人間の眼というよりも、
    カメラのレンズを通しての映像であることを暗示している。
    しかし重要なことは、このこととこの作品の芸術的価値とは
    さしたる関係を持たないということです。
    この作品の総合的で複雑かつ精妙な表現の一部に
    写真的イメージが応用されているにすぎないのだ。
    写真の機械的なプロセスと画家の長時間にわたる頭脳と手の作業
    との間には比較を絶するものがある。

この文章を読んで、おかしいな、そう感じました。
なんだか著者には、写真を利用することが低劣な作業だという思いこみがある感じです。
ちょっと応用してみただけで、描くのは大変な努力が言ったのだ、
ということでしょうか?

でも、フェルメールはなにも写真を撮って絵に貼り付けたわけではありません。
「写真の機械的なプロセス」なんか、フェルメールには何の関係もありません。
彼は、カメラ・オブスキュラのガラス板に投影されたイメージに、
肉眼ではとらえられない、まったく新しくかつ独自な着想を得たのです。

カメラ・オブスキュラがなければ、人間は№20に書いたように、
視覚像を自動的に修正して、
向こうの人間をこちらの人間に近い大きさにしてしまうのです。

遠近法が活用されてもなお、前後に重なる人物間の関係は同等でした。
中世、ルネサンスの絵をご覧下さい。
前後に重なる人々の大きさはだいたい同じです。

フェルメールは、カメラ・オブスキュラを使うことで、
ボケというものを発見した、私はそう考えています。

「真珠の首飾りの少女」の真珠は、丸みの表現にボケが使われています。
マウリッツハイスのこの絵の両側に並ぶオランダ画派の絵とまるきり違いました。
オランダ画派はまだすべての輪郭を細密かつ画然と描いています。
印象派など知らなかったのですから当然です。

ところが、フェルメールは、同時代であるにもかかわらず、印象派なのです!
このことはあとでもう少し書きます。
(と言っても、私はフェルメールの解説書、研究書を読んだことがありません。
自分勝手に、絵を見て考えているので、好い加減な野郎だとお考えの方は、
お読みになる必要がありません。)

私の言いたいことはこうです。

フェルメールはカメラ・オブスキュラのイメージを単に応用したのではありません。
カメラ・オブスキュラのイメージによって、現実の見方、把握の仕方について、
革新的な発見をし、その発見に基づいて描いたのです。

カメラ・オブスキュラのイメージは、
フェルメールがあの独自の描法と画像とを生み出した原動力、機縁、基礎だった!
その全部だったとはもうしません。
でも、とても重要不可欠の一部だったのです。

フェルメールにとって、写真は画期的な役割を果たした!



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by Hologon158 | 2011-07-28 21:55 | ホロゴンデイ | Comments(0)