わが友ホロゴン・わが夢タンバール

353.35 ホロゴンデイ外傳86「2012年6月30日大阪鶴橋をパンタッカーがスイープ」35 指は5本であった



精緻な理論的分析は展開できるけど、
決断できない頭脳明晰人間がいることを書きました。

思うに、その理由は2つ。
自分の頭で考えていないこと、
情報が多すぎて、本質的なファクターを見つけ出せないこと。

No.33に叙事詩「虎の皮を着た勇士」のことを書きました。
この本もそうだったと記憶しますが、
たとえば、岩波文庫に収められた小説たち、
現代で言えば、中編から小編小説に分類される、
簡潔なものがほとんどです。

それが、今ではどうでしょう?
「カラマーゾフの兄弟」「戦争と平和」級の膨大な小説が氾濫しています。
簡潔明快な文章は少なくなり、
複雑な構文で膨大な情報がどっと吐き出されます。
舞台は細部まで書き込まれ、人物表現も懇切丁寧。

でも、だから、読者に与える印象、感動の大きさが増したか?
とんでもない。
ただいっぱい字があるだけ。
読者に想像を膨らませる余地がまるでないからです。
ごちそうを口一杯詰め込まれて、「さ、おいしいだろ?」
おいしいわけがない。

前にも書きました。
もっとも簡潔な文章例。
春秋左氏傳にあります。

    船から上陸した攻撃側は反撃をくらって、命辛々船に逃げ戻ります。
    でも、敵は背後から追い迫ります。
    兵士たちは我がちに船の縁に手をかけて乗り込もうとします。
    そんなにたくさん載せられません。
    船が大きく傾いて沈没しそうになります。
    先に乗船した兵士は狼狽して、剣で縁にかかる指を切り落としました。

春秋左氏傳の叙述はただ一言、

    「指船に満つ」

左傳を枕頭の書とした傑物は多いようです。
代表例は関羽、岳飛ですが、その理由は明らかです。
簡潔を極めた叙述は、それを理解し、
大きく膨らませることのできる読み手を念頭において書かれたのです。

現代の小説はとにかく饒舌、
「エリザベスは手をさしのべた。その手の指は5本であった」式。
文章の裏や行間を読みとることのできない、
自分の頭で考えることのできない、
または自分の頭で考える暇のまい、
つまり、ただの時間つぶしのために読む読者相手に書かれているのです。

    「左傳」を読むことは、
    読解力の試練、テストであり、
    作者との対決であり、さらには、人間性を磨くことでした。

現代では、読書のほとんどは、文字通り時間を殺すだけ。
もし現代人はそんな読書だけに慣れてしまったら、
現実を読み解き、時代を先取りし、
確実な未来を的確に切り開く能力はますます貧弱になっていきます。
ただ時間に流されるだけになってしまいます。




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by Hologon158 | 2012-07-08 22:04 | ホロゴン外傳 | Comments(0)