わが友ホロゴン・わが夢タンバール

368.07 ホロゴンデイ90「2008年1月19日 冬枯れの葛城古道は寂寥の地だった」7 法頂「無所有」



法頂「無所有」(東方出版)を読んでいます。

とても澄んだ精神の持ち主です。
とても痛い言葉がありました。

    「現代は本当によくしゃべる時代である。
    食べたりはき出したりするのが口の機能であるが、
    この頃の口は、不必要な言葉を吐き出すのに、
    これまでになく忙しいようである。
    今ではお互いに面と向かった時に言葉を交わし合ったのだが、
    電子媒体というのが出現してからは、
    一人でも好きなだけしゃべられるようになった」

    「言葉数の多い話には大した内容がないというのが
    私たちの経験するところである。
    毎日毎日、私自身の口から発せられる言葉を
    一人でいるとき改めて考えてみると、
    大部分つまらない騒音なのである。
    人が話さなければならない言葉は、必ず必要な言葉であるとか、
    「ほんとうのこと」でなければならないのに、
    不必要な言葉や嘘が大半であることを考えると、憂鬱になる。
    くだらないことを話した後は、
    いつも私の中にある光が少しずつ漏れていってしまうようで、
    言葉尻が心許なくなる」

さては、このブログを見たな、
そう思わず考えるほど、
私のことを書いてお出でになる感じがしてしまいました。
本当にそのとおりですね。

でも、法頂先生に思い出していただきたいのは、
私のブログは日記だということです。
しかも、ボケ防止のための思考訓練の場でもあるということ。

思索家なら、自分の頭の中だけであれこれと考えを巡らして、
さまざまな大切なことについて決断、選択を下すことができるでしょう。
私は、思索家ではないので、文章に一々書いてみないことには、
決断、選択を下すことができません。
なにを考えるのか、このことだって、書き始めてみないと思いつかない。
だから、とにかくキーボードを叩き始めます。
つまり、おしゃべりではなく、思索、そうお考え下さいね。

ところが、法頂先生、こんな私の言い訳にもちゃんと答えています、

    「事実、必要以上の言葉は騒音にすぎない。
    何の考えもなしに、いきなり、やたらに話される言葉を拾ってみると、
    私たちは言葉と騒音の限界が分かる。
    今日私たちが話す言葉遣いが地位の高い低いに関係なく、
    ますます荒くなり野卑になっていく現象は、
    それだけ内面があらわになっている証拠であろう。
    内側に沈黙の照明を受けていないからである」

怖い人です。




368.07 ホロゴンデイ90「2008年1月19日 冬枯れの葛城古道は寂寥の地だった」7 法頂「無所有」_c0168172_2058599.jpg
368.07 ホロゴンデイ90「2008年1月19日 冬枯れの葛城古道は寂寥の地だった」7 法頂「無所有」_c0168172_2058012.jpg
368.07 ホロゴンデイ90「2008年1月19日 冬枯れの葛城古道は寂寥の地だった」7 法頂「無所有」_c0168172_20575322.jpg
368.07 ホロゴンデイ90「2008年1月19日 冬枯れの葛城古道は寂寥の地だった」7 法頂「無所有」_c0168172_20571254.jpg
368.07 ホロゴンデイ90「2008年1月19日 冬枯れの葛城古道は寂寥の地だった」7 法頂「無所有」_c0168172_20574121.jpg
368.07 ホロゴンデイ90「2008年1月19日 冬枯れの葛城古道は寂寥の地だった」7 法頂「無所有」_c0168172_205706.jpg
368.07 ホロゴンデイ90「2008年1月19日 冬枯れの葛城古道は寂寥の地だった」7 法頂「無所有」_c0168172_20572843.jpg
368.07 ホロゴンデイ90「2008年1月19日 冬枯れの葛城古道は寂寥の地だった」7 法頂「無所有」_c0168172_20572241.jpg

by hologon158 | 2012-08-19 20:59 | ホロゴンデイ | Comments(0)