わが友ホロゴン・わが夢タンバール

453.09 ホロゴンデイ106「2018年8月28日 ホロゴンが大阪中津の夏を吹き飛ばした」9 私は見た



ストリートフォトを撮る方はかなりおいでです。
私は風景写真をほとんど見ませんので、
私のお気に入りブログのほとんどがストリートフォト。

ところが、撮るもの、撮り方、結果、すべてが違います。
友人と時折一緒に撮影しますが、そのときも同じ。

   私が見つけるものは、私だから見つかる。
   私に見えるものは、私だから見える。

   人が見つけるものは、私には見つからない。
   に見えるものは、私には見えない。

なぜなのでしょう?

単なる視覚でも、実はかなり違っていることが明らかになっています。
「私は見た」という言葉ほど、あてにならない言葉がありません。
なぜか?

   視覚は、単に網膜像の認識ではないからです。
   見たとたん、あるいは見る前から、
   視知覚と脳とは相互に情報交換しあって、
   なにがどう見えるかを決定しているのです。
   網膜像と見えるものは、実は脳が関与して作り出した現実イメージ。

   顔をその方向に振り向けた途端、視線の方向にあるすべてが認識されます。
   でも、視覚はそんなに高速ではありません。
   だから、かなりの部分は脳が瞬時に情報を提供して、
   それらしい現実イメージを作り出しています。
   視覚そのものがそんな構成物なのです。

ストリートフォトを撮ろうとするとき、
撮影者は、知覚像を超えて、写真的イメージを求めているのです。

   そのとき、自分の人生、経験、美意識、撮影目的などが
   私の探索、選択を左右します。
   私は見たいイメージを探し、
   見たいイメージを首尾よく見つけるのです。

ということは、逆に言いますと、たいていの場合において、

   私が見つけるものは、人が見たいと思うものではない。
   人が見つけるものは、私が見たいと思うものではないのです。


写真家として作品制作をする人には、これは困った事態です。
ですから、2つの解決策を模索することになります。

   1 人が見たいと思うものを探す。
   2 自分が見つけたものを、人も「こんなものを見たかった」と思わせる。

1ばかりだと、創造的な写真家とは言いがたいでしょう。
2の方向で、人々に、思いもかけぬ写真世界を展開して見せ、驚倒させる、
これが本来の写真家の姿なのでしょう。

私は、このどちらの方向でも、写真を模索しません。
人が見たいと思うものなど、見たいとは思いません。
自分が見たいイメージを提供してくれない写真家とはおさらばします。
自分の写真が他にすぐれていると考えているからではありません。
外ならぬ私が撮ったからです。




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by Hologon158 | 2013-08-01 14:45 | ホロゴンデイ | Comments(0)