わが友ホロゴン・わが夢タンバール

455.04 ホロゴン外傳117「2013年7月20日大阪平野でゾンネタールを再認識した」4 紅楼夢



月曜日は2週間ぶりの付虹先生の揚琴レッスンでした。

中国の古典「紅楼夢」のテレビドラマからの一曲を練習しています。

中国の古典舞踊の舞手が長い袖を宙に舞わせながら
軽やかに踊るそんな印象の音楽です。

    でも、私が弾くと、まったく別物になります。
    もぐら叩きのような感じ。

肝心なことは、
左手の旋律部を歌わせる。
右手は軽く密やかに伴奏に徹する。

    私の演奏は、
    右手の伴奏が大きすぎて、旋律部がまるで聞こえない。
    スティックが弦から軽やかに舞い上がる必要があるのに、
    弦を押さえてしまっている。

情けないことですが、
付虹先生に教えていただかないと、
こんな当たり前のことが分からない。

    修練を必要とするあらゆる技で、
    独学者が陥る落とし穴のようなものです。

楽器演奏を独学で達者に弾く方がいます。
でも、専門家の目から見ると、実は勘違い、間違いだらけ。

    カラオケの名人が居ます。
    あの人はプロはだしだと誉めそやされて、得意になっておられる。
    でも、残響のない部屋で、アカペラで歌わされたら、
    たちまち馬脚を現してしまいます。

付虹先生にレッスンしてもらいながら、
いつもこのことを考えます。
そのたびに思うことは、

    写真でも同じことが起こっているに違いない。

なるほど、写真の撮り方を習うことはできません。
でも、写真の読み方はかなり習うことができるのではないか?

    誰も撮り方を教えてもらうことはできないとしても、
    必ずしも独りよがりでよいというものではなさそうです。

    上から見ても、下から見ても、横から見ても、
    写真を裏返しにしても、どこにも見所のない写真というものがあるものです。
    というより、そんな駄写真が世上、ブログ上あふれています。

そして、我こそは写真の最上最高の判定者なりと、
根拠のない自信にあふれた鑑賞者もあふれています。

    私にはそんな自信はないので、ただ一つの基準で鑑賞します。

        好きか好きでないか?

    優れた写真、巧い写真は、私の心がまともに反応しない限り、
    パスさせていただいています。
    自分の写真判定の正確性に自信がもてないからです。

写真判定能力は、できあがった写真を見るときだけ必要なのではないでしょう。
撮るときだって、働いているはずなのです。
ということは、自分がちゃんとした写真を撮ることだって
できていない可能性があることを意味します。
たとえロボグラフィであっても、
自分で自分の写真をただ好きなだけではなく、
写真としても優れたものであると自覚できたいものです。

今でも十分大好きなのですが、
誰も反応しない理由として考えられるのは、

    1 私の撮るようなものを写真として見る価値があるとは思えない。
    2 写真としてはかなり問題だらけ。
    3 1と2の複合。

優れた写真家というものは、
これまでは誰も写真として見る価値があるとは思わなかったような被写体を、
見る価値のあるものとして認めさせるものです。

どうしたら、そんな風に自分の写真を改善できるか?

    それが分かったら、こんな文章は書いていない。
    このあたりが才能の限界なのでしょう。

こんな風に考えますと、自画自賛したくなります。

    才能がなくても、
    優れた写真が撮れなくても、
    写真を楽しむことができる、
    それが私のロボグラフィというわけです。




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by Hologon158 | 2013-08-10 22:07 | ホロゴン外傳 | Comments(0)