わが友ホロゴン・わが夢タンバール

470.03 ホロゴンデイ109「2006年3月26日大阪弁天町でちょっとホロゴン吠えてみた」3 アウト



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前回の続きで、もう少し人と文とについて考えてみます。

フィクション、ノンフィクションを問わず、
私たちは日常多種多様の文章に出会います。
肌触りがみんな違うように、
と言っても、人の肌などほとんど触ったことはありませんから、
言い方を変えましょう、
人の容貌、容姿、振る舞い、行動、言葉がみんな違うように、
文章も人によって違います。

    どのような文章、さらには発言にも、
    作者の人柄、思想、人生が織り込まれてしまうからでしょう。

指紋ならぬ、「人紋」
読者は、その人紋を知らず知らずに読みとって、
好感をもったり、嫌悪したり、
鼓舞されたり、落胆させられたりするのです。

昔、ある会合に微熱を押して出席したことがあります。

    ところが、司会を務めた人物の語り口があまりにも温度が低すぎて、
    淀みがちで、あまりにも暗かったために、
    なんだか熱がどんどんと急上昇するようで、
    たまらず退席させていただいたことがあります。

そのとき、思いましたね、

    人を殺すにゃ刃物は要らぬ、
    暗くよどんだ語り口あればいい。

逆に、語り口が実に快刀乱麻、論旨明快、明朗闊達、意気ケンコウ、
そんな印象の文章に当たると、病気さえも治ります。

    文章というものはときに武器であり、薬であり、
    ときに刃物であり、毒であるということなのでしょう。

人と交わるのも、文章とつきあうのも心して選択すべきなのでしょう。

私は人間が極めて単純、シンプルに出来ているので、
そんな私でも理解できるような単純、シンプルな文章を好みます。

    分からない文章は不愉快なものです。
    作為が過ぎる文章にはとてもついていけません。
    自分を等身大以上の傑出した人物に見せようとする文章もご免。
    意味不明の複雑怪奇な文章はさらに受け付けません。
    実験的な文章も無理。
    近ごろノーベル賞候補になっている作家の偉大な小説群も、
    書店で手にとってあれこれ試してみましたが、
    私にはちんぷんかんぷん、つまり、私にとってはゴミ。

        ここだけの話、そんな小説が分かる、という人も、
        私はご免。

    一人として魅力的な人物が登場しない小説もアウト。
    登場人物たちがやたら死んでしまって、
    そして、誰もいなくなった的小説もあほらしいだけ。
    尻切れトンボに終わる小説はさらにダメ。
    人生になんの意味も与えてくれないからです。

こんな風に考えてきますと、私が元気になれる文章、
とてもとても少ないですね。
by Hologon158 | 2013-10-21 21:24 | ホロゴンデイ | Comments(0)