626.02 ホロゴン外傅155「2015年12月12日大和路ならPetzvalにお任せ」2 吉田正写真教室
12月17日木曜日、月1回の吉田正写真教室。
見学者を入れて12人、盛況です。
楽しい!
気になった先生のお言葉、
「写っていないものから何かを感じさせるのが、
写真の面白さ」
このような境地に到達できる人が何人いるでしょうね?
私のように、大抵の人にとって、
写っているものから面白さを感じさせることのない写真では、
とてもとても....
どんな面白さなのでしょう?
もう一つの言葉がこれに呼応するようです、
「写真は言葉で説明できない」
逆に言いますと、
言葉で説明できるようじゃ、大した写真じゃないのでしょう。
私が持参した写真は、近所で撮ったロボグラフィでした。
路傍で見つかった顔たちの5枚。
シネユニライトという古い映画用レンズで撮ったせいで、
異様に雰囲気があります。
「どこかスターウォーズの登場人物たちを思い出させませんか?
これはヨーダだし、これは皇帝だし、これは....えーっと....」
最後のキャラクターはチューバッカでした。
これで説明終わり。
実は、私にとっては、これらの写真は私の体験の記録であり、
思いがけない出会いの記憶。
私に関する限りは、私の写真は確かに、
「写っていないものから何かを感じさせる」要素が
ないわけではありません。
でも、それはただの個人史のエピソード、感興にすぎません。
写真の仕業ではなく、私の記憶のよすがになって、
自分の記憶をひもといているだけ。
つまりは、そのような写真の奥深さなど無縁だから、
結局は素人写真を抜けきれなかったわけです。
でも、私として、写真をたゆまず続けてきた甲斐はありました。
自分の記憶を自分の感じたままに記録することが
できるようになったのですから。
それだけでも、大したことだと私は自負しているのです。
そして、吉田正さんの言葉も痛いほど理解できる、
それも経験のおかげかもしれません。
この写真教室のメンバーのみなさんを拝見していても、
写真を撮るために努力を積み重ねておられることがわかります。
そして、私がそんな努力をいっさい積み重ねなかったことも
痛いほどよくわかります。
結局、私は写真を始めてからずっと、
自分が撮りたいように撮るか、
それとも、こうやればどう撮れるかの実験だけしかしなかった。
だから、不思議なほど、撮影ペースが変わっていない。
簡単に言いますと、ずっとのべつまくなし、
バンバンと沢山の写真を撮り続けてきただけ。
あんた、考える頭、あるのか?
そう言われそうです。
でも、私は写真を撮るとき、頭など使わなかった。
なにかを感じたら、その感じさせたものに肉迫して、撮る、
ただそれだけ。
思考も言葉も写真には無縁、
それが私の持論、と言いたいところですが、
正直なところ、写真を撮る際に、なにを考えたらいいのですか?
私にはわかりません。
私の職業は、外観上はひとまず、
思考、推理、論理等、頭脳一筋の性格がありました。
ところが、最後の決め手になるのは常に直感、
インスピレーション、発見、光明、こうしたものでした。
そのような思考を超越したなにかが起こらない限り、
納得のゆく結論など夢のまた夢。
それではただの事務処理であり、
物事の抜本的解決にはならない。
結局、私は職業生活の面でも、
ロボグラフィ主義を押し通してしまったのかもしれません。
今日、吉田正さんは私を後押しするような言葉もおっしゃいました。
「大切なことはすべて言葉で説明できない」
ただちに反論がばっと降りかかりそうです、
「つまらないことも言葉で説明できないよ」
でも、人間は、大切なものか、そうでないか、
はっきりと分かるものです。
梅田教室の生徒さんたちは、
すでにご自分のスタイルができている人ばかりのようです。
独特の写真世界を楽しませていただけます。
吉田正さんという写真家がそのような人たちを吸い寄せた感じがします。
凡庸な人間の教室には凡庸な人間しか来ないものです。
私は今でこそ経験の長さで重んじられていますが、
そのうち、片隅に縮こまることになりそうです。
写真は経験で撮るものではないからです。
by hologon158
| 2015-12-18 22:04
| ホロゴン外傳
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