2008年 10月 26日 ( 6 )
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私が写真を始めて、たちまち夢中になったこと、それは、
写真に写してみると、
肉眼では見えない別のあるものが見えてくるということでした。
たとえば、埠頭の下を洗う波。
肉眼では、波とその表面の反映と見えたものが、
写真では、ある種のサイケデリックな波紋として水面を彩っているのです。
写真は、リアリティを記録するものですが、
ファンタジーまで記録してしまうのです。
近ごろも、西の京で白樺風の樹列を撮影したのですが、
まるで吠える豚の横顔。
もちろんそんな風に見えたから撮ったのですが、
写真として定着してはじめて、その印象が確固たるものになります。
写真がファンタジーを確認してくれるのです。
私は絵が好きなので、写真を撮っても、額縁風の見せ方をしてしまいます。
画面を超えて、見えない部分まで想像させるような見せ方ができる、
そんな写真の作り方をできる人もいます。
ドキュメンタリー風の撮り方といえそうです。
写真は、現実のほんの一部を切り取ったにすぎないのですよ、というわけです。
私の場合、どうしても画面だけで完結する写真を撮りたがるようです。
ホロゴンの周辺減光もその意味で、私には重要なのです。
私にとって、写真は、作品ではなくて、私の心の動きの記録であるということと、
このことはけっして矛盾しません。
私は、目に見えた現実を記録したいのではなくて、
私の目にどう見えたかという、写真的イメージを記録したいのです。
そのイメージは、私がそのときに見たファンタジーによって、
リアリティから変容させられているはずなのです。
今回アップしました写真もそんな変容を見せています。
私が、現代レンズの正確無比な再現描写を好まない理由、
お分かりいただけましたでしょうか?



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by Hologon158
| 2008-10-26 21:14
| ホロゴンデイ
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明日に引き続き、本日も在宅。
先週、ややハードワークだったことと、
来週もハードに予定が詰まっているので、
疲れを癒すため、撮影は自粛。
でも、こんな日、必ず午後3時を過ぎると、手がむずむずし始めるのです。
自宅のすぐ側鹿野園という昔ながらの小さな村落を撮るのが近ごろの趣味。
執務日の職場界隈は昼食後の20分1本限定ですが、
休日の鹿野園は時間的余裕があるので、一応暮れ方1時間4本が目安。
ささやかな遊びの撮影なので(1日かけての撮影はもっと本格的な遊び)、
レンズは日替わりにしています。
本日はマクロスイター50mmF1.8付きアルパ9dと赤ズマロン付きライカIf。
本日は雨。
空はどんよりしています。
途中、EV値で言いますと、EV8か9程度の薄暮になってしまいました。
それでも1時間半の間に3本半ですから、収穫は十分ありました。
撮っている間に感じました、
ははーん、これだから、撮るレンズは選ばなければならないんだな。
普段は、ホロゴンを持って行きますと、
サブをバッグに入れていても、もうがむしゃらにホロゴンで撮ります。
でも、ホロゴンがないと、そのレンズに合った被写体を探して、
2本のレンズを満遍なく使います。
気が付いたら、
マクロスイター50mmF1.8でなんとマクロを撮っているではありませんか!
結局、ここで起こっているのは、レンズが被写体を決めるという事態。
これは間違っています。
私が撮るものを決めるべきです。
私がホロゴンと決めたのは、ホロゴンの画像が私の心にかなっているからです。
職場界隈シリーズと鹿野園シリーズ、
気をつけないと、軒を貸して母屋を取られることになりかねないぞ。
ちょっと心を引き締めて帰宅したのですが、
もうその頃には、日はとっぷりと暮れていました。
孔子は旅にあって「日暮れて道遠し」と嘆きましたが、
私の場合、ひたすらホロゴンに寄り添って歩く、これが人生。
道理で、すぐに家に着きました。



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by Hologon158
| 2008-10-26 18:08
| ホロゴンデイ
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今、ブログ「Roc写真箱」(Roc69.exblog.jp)で、
練達の写真家GG-1さんが古い喫茶店シリーズが展開されています。
どれもこれもレトロで、見るからに羨ましくなるような憩いの空間。
私の友人RAさんは、文章を書くときは喫茶店にノートパソコンを持参します。
どんなにうるさい店でも、彼の場合はオーケーなのです。
いわば喧噪の巷のまっただ中に身を置くことによって、
かえって精神集中がはかれる、そう彼は言います。
私は、彼のような精神力はないので、むしろ静寂の店を好みます。
このようなお店にいますと、
なぜか読書が進み、なぜか頭が働いて、
パソコンの文章入力は淀みなく、果てしなく進みます。
以前はレッツノートを使っていましたが、
今はそれよりも入力しやすいキーボードを備えたMSIの小型パソコンを使っています。
どこか、これと同種のキーボードで、重さ500グラムのものを開発しませんかねえ。
ちょっと話がそれましたが、
喫茶店「静香」のお二人、なんとも気持ちよさそうではありませんか!
なにを読んでおられるのでしょうね。
ちょっと知りたいですね。
宇治にもそんな喫茶店がありました。
その中に身を置くことによって、
我が家では得られないような精神の静穏、平安を得られる、異空間を提供する、
それがこの種の喫茶店の効用なのでしょうね。
そんなお店に仕上げるために、店主が払った労苦と資本、かけた時間、
そんなもの全部がお店にオーラを与えているようですね。
こうした喫茶店も、私が言いますところの「時間芸術」なのですね。
我が家に、たとえば、喫茶店「静香」-1の2枚目のような空間を作れたら!
ちょっと夢ですね。
というより、絶対に実現不能なので、
まさしく夢ですね。



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by Hologon158
| 2008-10-26 14:43
| ホロゴンデイ
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カルティエ=ブレッソンのスナップ写真には、
それが演出でないとしたら、
神業としか考えられないような作品がいくつもあります。
その理由の一つとして考えられるのは、
沢山撮っているので、単なる幸せな偶然に出会える確率が高かったから。
でも、猛烈に沢山写真を撮る写真家は山といます。
でも、カルティエ=ブレッソンはただ一人。
瞬時の見事なスナップを撮る人は沢山います。
でも、深い人間的洞察を誘うスナップって、ほとんどありません。
見たらすぐ忘れてしまうただの写真というのがほとんどなのです。
とすると、この理由は重要ではなさそう。
もっと有力な理由は、心理的な洞察力にあります。
カルティエ=ブレッソンは、幾人かの人の動きを見て、
瞬時にその関係性を読み取り、次にどう動くか、
そして、撮るに値する人間的真実を表現できるかを適確に予測できた!
私はそう信じます。
コナン・ドイルは医師だったのですが、
その師匠であった碩学ベル博士を見て、
シャーロック・ホームズを生み出した話は有名です。
ベル博士は、患者さんが入室した次の瞬間には、病状を読み取ったばかりでなく、
その人の職業経歴までぴたりとあてることができたのです。
実は、こんなことある程度は、誰でもやっていることなのです。
子供は、朝起きて、母親のそぶりを一瞬みただけで、
あれ、今日はご機嫌斜めだぞ、ご機嫌いいぞなどとかぎつけてしまいます。
そして、抜き足差し足歩いたり、抱きついたり。
猫だってそうなのですから、ここには動物的な勘もある程度働いているようです。
この勘でもって、人間のみならず生物は生き延びてきたわけです。
でも、そんな能力が発揮できるのは、慣れ親しんでいる状況だからです。
患者の様子を見ただけで、その心身状況を判断するなんて、
昔の内科医だったら、誰もがやっていたことです。
自分の専門分野なら、経験を積めば、誰もがしていることに過ぎません。
コナン・ドイルがベル博士を凄いと感じたのは、
この専門分野を超えて、人間そのものの理解に根ざした、
常人には根拠不明の意想外の推理ができたからです。
私は、カルティエ=ブレッソンもまた、
深い知恵と人間理解と経験とに基づく瞬時の決断により、
最適の場所に移動し、最適の瞬間に最適の角度でシャッターを落とすことができた、
そう信じています。
これが彼の有名な言葉の意味するところではないでしょうか?
「写真を撮るとは、
頭と眼とこころが一本のおなじ照準線で狙いをつけることだ」



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by Hologon158
| 2008-10-26 12:28
| ホロゴンデイ
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ブログなるものしてみようと考えたとき、
私は写真ブログについてまったく経験がなかったのです。
ただ、一冊のブログの解説書を手に入れただけで、
私はウェブサーフィンに乗り出したわけです。
私が考えたことは、ブログを思う存分愉しんでやろうということだけ。
なんの構想もなかったのです。
いきあたりばったりに分類を決めて、とにかく未知の海に乗り出したのですが、
一番愉しんだことと言えば、匿名で文章を書くこと。
アノニマスの誰かにあてて書く書簡、
そんな思い入れで書き出したのです。
問題は、なにを書くかを決めることにありました。
別に訴えたいことがあるわけではありません。
しょうことなしに、ぶっつけ本番で書くことにしました。
ときには、なんにも思い浮かばないことがあります。
そんなときは、とにかく書き出すこと。
今やっていることがまさにそれなのです。
でも、書き出してみると、なにか書けるものです。
私は、ブラインドタッチングなので、考えるだけで自動的に書けます。
(楽器の要領で、徹底的にタイピングを練習したのです。
もっとも、楽器はなにも弾けなかったのですが)
頭を自由に働かせればよい、それだけ。
ちょっと長々と書きましたが、これすべて前書き。
実は、これを書きながら、ちょっと頭の中で考えてみたのです。
「夢を見ること」「なにかを夢想し、実現を願うこと」
それを一生続けなくちゃ!
夢を見ることができなくなったら、人間お終いだ。
ここまで来て、ふっと思い出したのです。
写真を始めた頃、なにしろジャストピントの写真を撮ることが難しかったのです。
写真クラブの例会では、ピントの見事ぴたりと決まった写真が出ると、
必ず上位に選抜されたものでした。
ディジタルカメラ、携帯をお使いの皆さんには想像がつかないはず。
今は、よほどでないと、ぶれたり、ピントがはずれたりはしないようです。
今、当時のカメラを使うと、ぴたりと決まります。
どうやら、当時のモノクロフィルムに問題があったようです。
そこで思い出しました、私の夢を。
そうだ、どんな条件でもパンフォーカスで見事にピントが来て、
しかも視野全部を歪みなしで撮れるカメラ、
そんな夢のカメラを使えるようになればいいな!
当時、こんなことが夢だったのですから、幼稚なものです。
でも、なにはともあれ、私はこんな夢を見たのです。
この夢を思い出した途端、パッと閃きました。
なんだ、この夢、実現してるじゃないか!
ホロゴンウルトラワイドって、まさにそのカメラじゃないか!
ここで、結論と行きましょう。
だから、夢を見ることはよいことなのです。
ちゃんと実現することもあるのですから。
そして、ブログで文章を書くこともよいことなのです。
人生を思い出すきっかけになるのですから。
でも、今回の写真をごらんください。
その夢のカメラでこんなものを撮ってるのですね。
たいていの方はほんとに笑ってしまうでしょうね。




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by Hologon158
| 2008-10-26 09:15
| ホロゴンデイ
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私は、この宇治で何を撮ろうとしたのでしょうね?
私は、なにか深い構想でものを見るなんてことはしません。
宇治に着いた途端、ホロゴンを取り出し、
駅を出たら、もう撮り始めている、そんな撮り方。
でも、ある町に行ったとして、
その町で撮るべきものというものがあらかじめ決まっているものでしょうか?
観光写真を撮るのであれば、別ですが、
私のような目的のない人間にとって、
撮るべきもの、撮ってはならないものの区別はまったくありません。
どこに行っても、予測不能が鉄則。
むしろ予測厳禁でしょうか?
心を完全に開いて、来るものを拒まない、そんな撮り方です。
でも、これはただの修辞学的な言葉遊びにすぎないかもしれません。
実際には、なにかにぶつかったとき、
私の心になにかが点灯します。
いわば、そんな点火プラグは誰についても有限数でしょう。
ひょっとすると、私の点火プラグは数個しかないのかも知れません。
見る眼のある方は、すでに私の点火プラグの数を数えてしまったかも知れません。
ははーん、同じことの繰り返しだな、
それが分かると、退屈だな。
もうそろそろ、見限った方がよさそうだな。
こんな風につぶやいておられるかも知れません。
でも、私の方はそんなこと、先刻ご承知なのです。
私のやってることは、結局単純なことなのです。
ホロゴンで撮ると、どう見えるか?
ただ、その実験をやっているだけ。
前回、写真家は道具ではなく、人間で撮ると書きました。
この言葉と矛盾するじゃないか、そう指摘される向きもあるかも知れません。
でも、私は写真家じゃなく、単なる写真愛好家なのだから、
なんにも矛盾はありません。
人間そのものがもともとマンネリだし、
撮り方も一つしかないのですから、もともと一本調子なのです。
だから、このブログ、いつの日にか、
間違い訪問をのぞくと、アクセス数はゼロになるはず。
そうなってもなお、なお私がブログを続けることができるか?
(つまり、このブログは自分のために作っているという自分の言葉を
立証できるか?)
そして、ホロゴンで撮り続けることができるか?
それが、私の勝負どころでしょうね。




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by Hologon158
| 2008-10-26 00:05
| ホロゴンデイ
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